人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
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将来の夢

 将来の夢なに?と聞かれたので「死ななくなること」と答えた。死ななくなる方法がどうやらあるらしい。

 僕は将来のことを考えるのが下手な病気らしい。将来設計も何もない。母親に、けんちゃんはどうなりたいの?と聞かれたとき、「いつ死んでもいいようになりたい」と答えたら、悲しい顔をされた。母親は死ぬ前、「母さん、今はまだ死にたくないわあ。今死んだら悔しいわあ。」と言っていた。僕も悲しかった。いつもの海でそう言われた。孫の顔も見たかったろうし、僕のことも心配だったろう。「まだ死にたくないとき」に死んでしまった。

 「いつ死んでもいい」というのは、底抜けに明るいことだと思う。大体の人間は「まだ死にたくない」と思いながら死んでいくんじゃないか。80歳で「まだ死にたくないのに死ぬ人」になるより、30歳で「死んでもよくて死ぬ人」になりたい。

 諦念とか、倦怠とかから出てくるのではない、「いつ死んでもいい」 ただそこを目指して生きてる気がする。僕はまだ死にたくない。

 
朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり—————孔子

ネガティブケイパビリティ

お経
ただし、阿弥陀様のお助けは、分からぬ事だらけでも助かります。分かって助かるなら愚かな人は助かりません。愚かな人でも、「分からぬまままるまる助けてやるで念仏申せ」いわば「まるまる引き受ける」という大悲の阿弥陀様の仰せを「ああありがたい、こんな者を」といただくとき、何も分からないままに助けたもうお慈悲がましますからたすかるのです。
 この大悲の仰せに対して、ああじゃこうじゃと自分の愚かな考えで張り立てて
いくのを邪見と申します。「自分は賢い」と思う驕慢が心の底にあるからです。———師匠(土井さん)


そういう相対有限のものが、絶対無限の如来の智慧を知ろうとしても、知ることができない。それを知ろうとするのは、相対有限であるという自分の分限を知らぬからである。————曽我量深


仏意計りがたし———親鸞


 僕は好奇心と知的探求心が強い。それはいいことでもあるし、悪い事でもある。他力信仰的に言えば、どちらかと言えば悪い。無限の阿弥陀仏を人間の知性の分際で知ろうとするのは不可能である。人間には知られない故に「無限」なのだから。「阿弥陀仏がいるなら見せてみろよ」という人もいるが、「無限」は見る事ができない。人間に認識できるものは「無限」ではない。人間の知性で認識できないものを「無限」という。それを知性で切り刻むのは不可能。

 なのだけれど、僕はどうしてもそれをしようとしてしまう。お経で「ここの部分はおかしいんじゃないか?」と思ったらそれをとことん突き詰めてしまう。そのせいで2ちゃんの板やヤフー知恵袋やお坊さんを困らせてしまった。己の分際を知らなければいけない。僕の知性はたかが知れたものだ。自力で無限を知ろうなどというのはおこがましい。それを徹底的に体感するのを「機の深信」という。俺はバカなのでお経を理解することなんてできない。けれども師匠の云うように「自分は賢い」と思う驕慢が心の底にある。何も分からないバカなのに…。

 自分の分際をわきまえたい。知らないものを知らないままに置いておく能力を「ネガティブケイパビリティ」というらしい。僕にとって「分からないままにおいておく」というのはまだまだ難しいかもしれない・・・。



人生
 岩の上で思う

天地は何者にもとらわれず、何んと余裕があることか
今は昔の時代とは、何んと遠くはるかに離れていることか

五尺(1メートル50センチほど)の小さな体でその大きさを測ろうとする
ホレーショの哲学はなんら専門的でも権威のあるものでもない
宇宙の真相はただ一言で言うことが出来る、「不可解である」と
私はこの恨みを胸に持って思い煩い、ついに死ぬ事を決断した
すでにこうして岩の上に立つことになって
私の胸の中には何の不安があるだろうか、なにもないのだ
非常に大きな悲観は、非常に大きい楽観とおなじであることを、始めて知った—————藤村操


 ↑これがネガティブケイパビリティが足りなくて自殺した人の遺書。

 
人生のことは思索したり思案したりすれば分かると思っていたが、病気になり人生のことについて深く考えなければならぬことになってみると、人生のことは畢竟ずるに不可解というところに決着する。・・・・・・自分には何にもわからなくなったところで一切をあげて如来に信頼する。・・・・・・如来は無限の智慧にまします。————清沢満之


 ↑ネガティブケイパビリティが足りて、その上で「不可解」というところに留まらず、自分を「無限の智慧」に預けた人。

 俺はバカだから、人生の意味は「不可解」とならざるをえない。だから、分からないまま、無限の智慧を信ずる。分からないものを分からないまま信じる。分からないものに分からないまま頭を下げる。そして無限の智慧を得る。それが阿弥陀仏の救いだ。

土井ちゃん

 個人的に仲良くしているお坊さんがいる。勝手に師匠とあおいでいる。メールでやりとりしているんだけれど、もう数十通はやりとりしたと思う。最近は信心についてメールで質問しているんだけれど、噛み締めないと分からないところなので、メモ帳代わりにここに書いとく。太字:僕 普通の字:土井さん

疑いのあるまま助かるなら、「信心を得る」とか「信前・信後」などはどういった意味があるんでしょう?仏願の生起本末を聞いて疑いのないという信心を得るのが浄土真宗の救いだと思っていました。阿弥陀仏の存在そのものまで疑ってしまうような自分ですが、念仏をしているということはもう救われているということなんでしょうか?

弥陀の本願は「信心を得た者を救う」との誓いでは無くて、「我が名を称えるばかりで助ける」との念仏往生の本願は、「疑いだらけの汝は助からぬものである。その助からぬものをまるまる引き受ける」の大悲を聞いて、「ああこの阿弥陀様なればこそ」といただかざるを得ない。そこに不思議にも大悲が届いて下さって、「阿弥陀仏さまに助けられるばっかり」との信心が不思議にも私に与えられるのです。

ですから本願そのものに何らの条件はありません。条件のない大悲に驚く、そこに私が信心を起こしたのではないし、起こしうるものではない。まったく私はからっぽの無信心のままなりで助けて下さるという「信心」が不思議にも向こうさまから与えられるのですね。

「念仏をしているということは」念佛をきいていること。南無阿弥陀仏を聞いていること。南無阿弥陀仏の仰せは「まるまる引き受ける」「助からぬものを助ける」の仰せです。

「仏願の生起本末を聞いて疑いのないという信心を得る」は教義としてはそうでしょう。しかしその実際は上の通りです。信心をお助けの条件のようにして聞くと、阿弥陀仏の大悲は分かりません。南無仏。

質問ばかりすみません
「疑いばかりの汝を助ける」というのは疑い深い汝も念仏だけで浄土へ往生させるということでしょうか それだと方便仮土へ行ってしまう気がします「疑いばかりの汝をまるまる助ける」というのは「真実浄土へ行くためにお前をそこまで(信心を得られるように)育てるぞ」ということなんでしょうか 真宗は信心正因だと聞いているので、どうしても信心が条件だと思ってしまいます
念佛を称えるだけで助けるぞ、と頂いておけば、その大悲の心が信心として心にやってくるのでしょうか
けれど念仏を称えるだけで助かる、というのは称名正因だという気がしてしまいます
如来から賜る至心信楽欲生我国は必要ないのでしょうか?
念仏だけで助かると聞いていくうちに(称名正因?方便?)、徐々にそういった信心が不思議にも自分の上に現れてくるのでしょうか


阿弥陀仏の本願は「汝は疑いばかりしかない、それでいい」と言われるのではありません。ですから「疑いがあっても、これでいいのだ」と自己肯定することではありません。よく「真宗はこのままでよかったのだ」という点だけを強調していますが、これはややもすると邪見になります。

そうではなくて、「汝は本願を疑う故に、どこまでも助からぬものである」と知らせて下さり、にもかからわず「その助からぬものをこそ助けずにはおかない」の不可思議な大悲のお助けです。
弥陀の本願を疑ってやまない故に、流転を重ねてきたのです。ですから、助かる縁も手がかりもありません。それが助からぬ私そのものです。しかるに、よくよく弥陀の本願をお聞かせいただくと、その助からぬものに、「我が名を称えよ」との仰せは、阿弥陀様が助からぬものに目をかけて下さって、かわいそうであるとの大悲の涙から出た一句が「一声なりとも称えるばかりで助ける」との驚くべき大悲の仰せなのです。
「助からぬものを助ける」それが「極重悪人(助からぬもの)唯称仏(唯称えるばかりで助ける)」の思し召しです。


称名正因ということばそのものが、間違いというのではありません。称名正因というところに大悲を感じるのを信心と言っていいでしょう。ただ「称名正因」を自力として批判的に言う場合は、「称えて助かろう」と念仏を称える功徳によって助けていただこうとする、その場合の称名正因は間違いです。
南無仏

返信ありがとうございます
実は昨日、曽我量深先生の著作を読んでいて、「阿弥陀さまも衆生を信じている」という文章を読んで ああそうだったのかと思って、それから驕慢心への懺悔と感謝の気持ちが湧いてきて、これが信の一念かと思っていたのですがやっぱり時間がたって、今日の夜になってみると、生起本末に疑いが湧いてきましたけれども前よりも疑いは減りました 土井先生が仰っていたように、自分の計らいに値打ちを見なくなったというか…。
これは自力の信心なんでしょうか? こういう風に徐々に疑いというのは薄くなっていくのでしょうか それとも疑いぬいたところの「一念(一瞬)」で一気に弥陀に任せられるように
なるのでしょうか


「疑いがだんだん薄くなってすくわれるのか、それとも疑い抜いて一気に弥陀にお任せするようになるのか」ということですが、これみな自分の方をむいています。
そうではなく、阿弥陀仏が「汝には信心の起こりようない、唯除かれた存在である。疑いばかりしかないゆえ助からぬものである」と私の本性を見抜いて仰せ下さっているお言葉を聞くばかりであって、それを聞いている私が「疑いが薄くなるか、それとも疑いをもっと徹底せねばならぬか」というような事ではありません。
 10年聞いても20年聞いても、「汝は法謗闡提の疑いだらけの者だ」仰せ下さる今の仰せを聞かせていただくばかりです。聞いている私がどう変わるのでも無く、どうする必要もありません。まるまるダメな奴です。疑いが薄くなるとか、疑いの塊のなれば任せられる、ように思っていることがまだ自分が何とかなれると思っているからです。 
 
 南無仏

毎度質問ばかりすみません 「如来からいつのまにか信心を賜ってそれが因(条件?)になって往生する」と思っていたので、浄土真宗の信心が混乱してしまいました 十八願の「至心に信楽して」というのを条件だと思ってしまいます 
至心信楽欲生について、教行信証の解説書を読んだりしたのですが 難しくてよくわかりませんでした・・・ 至心信楽欲生というのは条件ではないのでしょうか 親鸞聖人はどのように解釈してるのでしょうか


浄土真宗について混乱してしまったので、浄土真宗について基礎的なことを書いてるホームページをいろいろ見てみました
>「信じるということ」は子猿のように「つかまる」ことではなく、子猫のように「つかまれる」ことだと言えます。私が信じるから救われるのではなく、阿弥陀さまが必ず助かると信じてくださっているので、私たちは救われるのです。救われる根拠は私の信にはありません。阿弥陀さまが助かると信じてくださっている安心の心が私に映る(移る)こと、その安心の心が信心なのです。「如来よりたまわりたる信心」こそ他力の信なのです。 
>救い取ってくださるのは阿弥陀さまです。だから今一度、阿弥陀さまのお慈悲を聞いてみてください。いつでも「そのまま救う」の親さまです。疑う私を救わないとはおっしゃっていません。疑う私に、そのまま救うとはたらいてくださる広大なお慈悲に遇って、あんなに
取れなかった疑い心が取られてしまいます。

疑いよここ聞き分けていんでたも そちがいるゆえ信が得られぬ
疑いにここを退(の)けとは無理なこと   胸を離れて何処に行きましょ
疑いよ是非行かぬならそこに居よ     そちに構わず信を取るべし
疑いは何処に居るかと問うたれば     代わりに出て来る念仏の声
の歌のように、阿弥陀様が「疑い深い汝も念仏一つでまるまる救うぞ」と仰っている大悲を聞いていると、徐々に「疑い心」が取られて、代わりに念仏の声が出てくるのでしょうか


信心を私を助けて下さる条件と受け取るなら、助かることは極めて難しいことになります。いや不可能になります。十八願の「至心信楽欲生我国」は法蔵菩薩の願いであって私に対する要求ではありません。すなわち一切衆生に本願を信じさせたい、信心を与えて救いたいのお心です。「本願を本当と信じさせて我が国に生まれさせたい」の法蔵菩薩の願心です。

阿弥陀仏のお助けは無条件のお助けです。しかし、私たちが無条件のお助けであったと知らなければ、無条件のお助けは私のお助けになりません。本当に無条件のお助けであったと受け取るのを信心といいます。
そして無条件のお助けは無条件のお助けを聞かなければいつまでも分からないままです。ですから念仏聞法するのです。

ではどうして私に信心が与えられるかと申しますと、本願の名号を称えさせ聞かせてくださることによって、衆生が本願(まるまる助ける。助からぬものを助ける)の大悲心を聞くことによって、不思議にも大悲が凡夫の私の心に届くのですね。回向されるのです。

それは聞くことによって疑いが薄くなるということよりも、むしろ「疑いだらけの助からぬ私」という、救われがたき身を知らされ、同時にこんな者に阿弥陀様は「助からぬ汝を救わずにはおかない」と立ち上がって下さったという大悲が知らされるのです。南無仏

無条件のお助けというのがなかなか腑に落ちません…。腑に落ちたら信心ということになるんでしょうが

例えば疑いながら念仏をしている僕のような人間は、今死ぬとまた輪廻するか、方便仮土に行くと思います
僕の教義理解がおかしいんでしょうか 疑いながら念仏してそのまま死んでしまっても真実浄土へ行けるのでしょうか

 南無阿弥陀仏を「まるまる助ける」と聞いても「でも信心のない自分は救ってくれないんでしょう」と考えてしまいます
 本当に「無条件」ならば今のまま助かっているので何もしなくていいとも考えてしまいます

 また考え方がさかさまになったりしているでしょうか


「 無条件のお助けというのがなかなか腑に落ちません…。腑に落ちたら信心ということになるんでしょうが
例えば疑いながら念仏をしている僕のような人間は、今死ぬとまた輪廻するか、方便仮土に行くと思います僕の教義理解がおかしいんでしょうか 疑いながら念仏してそのまま死んでしまっても真実浄土へ行けるのでしょうか」

疑いながらも念佛一行に定まった人は「方便仮土」へ生まれさせてついには真実報土に往生せしめずにはおかないという二十願がかけられています。有り難いですね。十八願の大悲がさらに二十願にまで手をさしのべて下さっているのです。

「南無阿弥陀仏を「まるまる助ける」と聞いても「でも信心のない自分は救ってくれないんでしょう」と考えてしまいます 本当に「無条件」ならば今のまま助かっているので何もしなくていいとも考えてしまいますまた考え方がさかさまになったりしているでしょうか」

ええ、逆さまなのですね。「信心のない自分」と本当に感じたら、「そんなお前だからこそまるまる助ける、我が名を称えるばかりでよい」の絶大な大悲心が有り難いではありませんか。南無仏。

ふと

 ほんとに自殺しちゃおうかなあと思う
 ふと、ほんとに自殺しちゃうのかもしれない
 勢いとかノリとか覚悟とかじゃなく、ふと、自殺しちゃうのかもしれない
 母親に会いたい 誰にも愛されない 人生は悲しい

 自殺する人って ふと 死ぬんだろうか

ファッション論

 誰に言っても理解されないことがある。それは「オシャレをする奴はダサい」ということ。
 これについて上手く説明できなくて、感覚的に言っているだけだったんだけれど、親鸞のよく言う「虚仮」という言葉の意味を調べたら、急にしっくりきた。

1 思慮の浅いこと。愚かなこと。また、その人。「虚仮の一念」
2 仏語。真実でないこと。外面と内心とが一致しないこと。


 外面と内心が一致しないこと。高い服やセンスのいい服を買う。なんのために?モテるために。自分をよく見せるために。「キレイ」な外面と、「汚い」内心が一致していない。虚仮だ。オシャレをする奴は虚仮だ。

 普通に普通の服を着ればいい。
 まあめんどいだけなんだけど…。

心得たと思うは、心得ぬなり

心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり————蓮如


 8月31日に、ソガリョウジン先生の著作を読んでいて、「実は、凡夫が信じる前に、阿弥陀様が凡夫のことを信じている」と書かれてあって、「ああ、そうだったのか」と思って、懺悔、懺悔、懺悔の自分であった。口に出して何度も「ごめんなさい」「ごめんなさい」と言って、今まで仏智を疑っていたこと、計らいが止まなかったこと、先生の言葉を素直に受け取れなかったこと、自分が一番偉いと思っていたこと、懺悔、懺悔、懺悔の限りだった。
 心の中の自分が、常に仏様、あるいは世界の全ての者に対して頭を下げていて、自分はなんて偉そうにしていたんだろうと涙が出そうになった(出なかった)
 今までは読んでもおとぎ話にしか思えなかったお経や仏教書が、頭の中にスラスラと入ってきて、「今まで僕は何を読んできたんだろう」と思った。
 ひたすら、心の中で頭を下げた。

 それから、胸のあたりが喜びに溢れて、阿弥陀仏と一体になるとはこういうことかと思った。仏様が胸に住んでらっしゃるようだった。

 のは良かったのだけれど。9月1日の夜になると、もう懺悔心はなくなり、お経も疑心なしで読めなくなってしまった。けれども信心の一端は垣間見た気がする。安心、安心、安心だった。常に仏様が胸にいる。
 こういうのを自力の信心というんだと思う。早く安心したい。

ピュアな表現

 「精神の肉体」は、沈黙の王座に住む。いかなる生命とも、かかわりはない。それは「表現」の衣を持たない。
「表現」とは所詮、「生命ある世界」のものである。
 僕の誠実さは「表現」の中に許容の匂いをいちはやく嗅いだ。———原口統三

 全ての表現に純粋さはない。僕はこの「誠実さ」や「純粋さ」を狂おしいほどに求めてきたが、「表現」の中に、それは見つからなかった。「表現」には不純物、夾雑物が「必ず」混入している。どういった不純物か。一番大きいのは、虚栄心である。「ママ、こっちを見て。僕を認めて」という承認欲求である。僕はこの煩悩を、汚らわしいと感じる人間なのだが、この汚らわしい煩悩を隠したまま、「綺麗」な表現をするのは罪悪だと思う。罪である。悪である。嘘である。

 表現に混入する不純物は他にもたくさんある。金銭欲である。性欲である。金が欲しいから詩を書くんである。モテたいから音楽をするんである。オフパコをしたいからツイッターをやるんである。そういった根本的な原罪を隠したまま、綺麗な言葉を紡ぐ。これは嘘つきの所業である。僕にはそこまで「鈍感」になれないんである。

 僕は精神的な潔癖症である。血で書いた言葉、人格で書いた言葉、本能で書いた言葉しか受け付けられない。だから、アウトサイダーアートは好きである。あれは、生命の表現である。ゴッホも好きである。宮沢賢治も好きである。カフカも好きである。歎異抄も好きである。アルチュールランボーの生き方も好きである。生命が踊っているような表現しか、受け入れられない。「僕を認めてよ」という表現は、マスターベーションなんである。「お金が欲しいよ」という表現は、商売なんである。「モテたいよ」という表現は、発情期のサルなんである。



 純粋な表現を求めていたら、鎌倉仏教にたどり着いた。鎌倉仏教の特徴は「専修」ということである。「只管」ということである。「ただ」する。「ただ」坐禅をする。「ただ」念仏をする。坐禅に目的はない。故に、純粋である。僕は坐禅よりも、尊い表現を知らない。念仏に、不純物はない。阿弥陀が「助けるぞ」と吐く真実の言葉である。僕のような汚い人間の口からも出てくる純度100%の慈悲の表現である。煩悩まみれの凡夫が表現をするんじゃない。仏が「南無阿弥陀仏」と名乗りを上げるのだ。純粋な表現は存在した!それが何よりもうれしい。

つまるところ

「結局」という言葉に縛られながら生きてきた。「結局」全部無常だ。「結局」別れる。極めつけは、「結局」みんな死ぬから全部無意味だ。

 「結局」という言葉は、全てのプロセスをそこに収斂させる。人生をどういったプロセスで動かすか、ということが大事な人もいるだろうが、僕にとって大事なのは終局だけであった。結局死ぬから何もかも意味ない。削除したブログは、そういった文章でまみれていた。

 「畢竟帰処」という言葉がある。これを昭和の名僧が翻訳して、「行きついたところまで行きついた人生」と言っていた。そして、それは坐禅であると。これは凄まじいことをいっているなと直観した。「畢竟」とは「結局」という意味である。結局帰る場所。それは「死」ではなくて「坐禅」なんだと。すさまじい衝撃だった。

 仏教の本、親鸞の和讃を読んでいたら、こういう句が出てきた

 "畢竟依を帰命せよ"

 どんづまりの、「結局」のところにあるものに、帰命しなさい、ということである。どんづまりにあるものは何か?それは言うまでもなく、阿弥陀仏である。「結局」死ぬので何もかも無駄、という世界以外に、他にも潤沢な世界がたくさんあったんだ。「結局」浄土に行かせてもらうので、何もかも尊い。そういう世界がある。「結局」にも、いろいろある。

コメント欄

 最近僕のブログを見てる人が増えているようで、それに伴ってコメントもちらほらついている。大半は僕に対する誹謗中傷?みたいな感じっぽくて、あまりに目に余るものは削除しています。削除するまでもないものは放置しています。

 先ほどコメントを頂いたのだが、保存する前に削除してしまった。それについて返信します。

 内容は「君は道徳観念が欠落している。君のようなものが宗教を語るから宗教が誤解される。人生観や宗教観を語る前に道徳観念を勉強してください。君みたいな人に仏教を語ってほしくない」というものでした。

 仏教には様々な宗派がありますが、僕がシンパシーを感じているのは浄土真宗です。浄土真宗では「悪人正機」を説きます。悪人こそが、阿弥陀仏の救いの対象です。
 僕の道徳観念がどうであっても、阿弥陀仏は見捨てません。これを僕のバイブルである歎異抄講話では「倫理以上の信仰」と言っています。
 
 ただ僕に道徳観念が足りていないし、その自覚がないのも確かだと思います。自覚がない、というのが一番の問題で、自分の行いを恥じることを「慚愧」と言います。仏教一般でも、浄土真宗でも慚愧は非常に重要です。
 
 本願ぼこりという言葉があります。
本願誇りほんがんぼこり 親鸞の言葉をもとにして,異端を歎いた『歎異鈔』第 13条に出てくる語。 弥陀の本願に不思議な力がそなわっているからといって,悪を恐れずにふるまうこと。

 この本願ぼこりにはなりたくないとは思いますが、僕はしょーもない凡夫なので、悪いことをしてしまうのも事実です。

 道徳観念のある奴も道徳観念のない奴も浄土真宗では救われます。僕のブログを見て仏教の何が「誤解」されるのか正直分かりませんでした。浄土真宗と道徳観念は本質的には関係がないと思います。悪は宿業の結果です。

 親鸞聖人の道徳観です
「弥陀の本願が広大無辺なのをよいことにして、故意に悪事を行うのは、『本願ぼこり』といって、浄土往生は不可能だ」と言う人がいます。

 これは本願の真意を疑い、善や悪がどうして起ってくるかということを理解していないからです。

 善き心の起こるのも、そうした起こるべくして起こるのであり、悪行を為すようになるのも、悪行を起こすような原因によってのことなのです。

 故親鸞聖人は「兎や羊の毛に付いた塵ほどの罪でも、起こるべき原因によって起こっているのだ」と言っておられました。

 またある時、親鸞聖人は、

 「唯円房は私の言う言葉を信じるか」と仰せられたので、

 「信じます」とお答えしましたら、

 「では、私の言うことに背かないだろうな」と念を押されたので、

 「その通りにします」とお答えしたところ、

 「では、人を千人殺してきなさい。そうすれば浄土往生は確定するぞ」と仰せられましたが、

 「仰せではございますが、私の器量では、一人でさえも殺すことは到底出来ません」とお答えしましたところ、

 「では、どうして親鸞の言葉に従うと言ったか」と仰せになりました。

 「これで分かったであろう。何事でも自分の思い通りに出来るのなら、浄土往生のために人を千人殺せと言われたらその通り殺せるはずだ。

 しかし、一人でも殺せないという理由があるから殺すことが出来ないのだ。自分の心が良いからということではない。殺さないでいたいと思っていても、百人も千人も殺すこともあるのだ」と言われました。

 これは、自分の心が良ければ、それが良いことであると思ったり、悪い心であれば、悪いことと思う、自分のはからいだけを思い、実は阿弥陀仏の願いの力によって救われるのだという大切なことを忘れていることを言われたことでした。

 その昔、間違った考え方にはまってしまった人があって、「悪を造ったものを助けるのが弥陀の本願だ」と、故意に悪行を重ね、往生の種にしようとした人たちがいて、その悪評が親鸞聖人に聞こえたとき、聖人はお手紙に「毒消しの良薬があるからといって、毒を好んで飲んではならない」とお書きになったのは、間違った解釈を止めさせようとされたものです。

決して悪業が往生の障害になるというのではありません。

 戒律を守るというだけで、本願を信じないというのであれば、私達はどうして迷いの世界を抜け出せることが出来るでしょうか。

 正しいと思っていることも出来ない私であっても、弥陀の本願に出遭うことによって、本願に守り包み込まれて行くのです。

 だからといって、自分に備わっていない悪業までを、わざわざ作ることはないでしょう。

 「海や川で網を曳き、釣りをして生き物の命を生活の糧とする者も、野山で獣を捕り、鳥を捕ってその命を生活の糧とする者も、商売をし、田畑を耕して生活している者も、みな同じことだ」と仰せられています。

 「人はそうしなければならない状況に追い込まれると、どんな行いでもするものだ」と、聖人は仰ったのに、近頃は知ったか振りをして、善人だけが念仏するのだといわんばかりに、念仏の道場に張り紙をして、「○○のことをした者は道場に入ってはならない」などということは、外見は賢者や善人らしく振る舞っていても、内心は嘘いつわりの心を持っているのことになるのではないでしょうか。

 たとえ本願に甘えて造る罪であっても、そのようにせずにはおれない状況によって造られるものです。

 だから善も悪も、そうしなければならない時はそうしていくものが人間なのだから、出来もしないことに囚われるのではなく、一途に弥陀の本願をたのむということこそが、他力の信心というものです。

 「唯信抄」にも、「阿弥陀仏がどれほどの力を持っているのか知りもしないでは、いつでも罪を作ってしまうような私なのですから、とても救われる事は難しいことだと思うべき」と述べられています。

 本願に頼り切る心がなければ、他力(阿弥陀仏)を信じる心もしっかりと根付かないでしょう。

 悪業・煩悩を断ち切った後に、本願を信じるのというであるなら、本願に頼り切る思いもなくてよいでしょうに。

 煩悩を断てば仏になるというのなら、仏になっている者のために五劫思惟もの願が立てられたということは無意味なことになります。

 本願ぼこりはいけない、と他人を誡める人々も、煩悩や不浄を備えておられるのです。

 それは本願にほこられているのではありません。

 どんな悪が本願ぼこりで、どんな悪が本願ぼこり」でないと区別できるのでしょうか。

 むしろ幼稚な考えではないでしょうかね。


 僕のブログを見て何か仏教に「誤解」を持った人がいたら、こんな道徳観念のないゴミでも救われる教えが浄土真宗だと、知ってください。

自己分裂 救い

 実存哲学やロシア文学、近代日本文学、宗教的日記を読んでいると、「自己分裂」というモチーフが出てくる。自分aが自分bに働きかける。自分aが自分bを見ている。「誠実さ」という観点からこの自己分裂を考えると、自分aを自分bが見ている、その自分bを自分cが見ている、その自分cを自分dが見ている、という風に無限背信してしまう。どこかに「見ている」自分というのが現れるので、「ジャッジをする主体」という「自分」が残ってしまう。これが「卑怯さ」の根源だと思う。

 「芸術家は自分で自分を救っている」と友達が言っていた。衒学おじさんに「宗教しなくても自分で自分を救えばいいんじゃないの?」と言われた。自分は自分を救えないよ。だって「救う自分」は「救われない」んだから。自分bが自分aを救う。自分bのことは誰が救うの?自分c。自分cのことは?最終的に「救う自分」は「救われない」。「救う自分」という主体は救われない、救うことはできるけれど、救われることはできない。「主体」は「残滓」だ。

 自分が自分を見ているという近代的な自己意識の突破。それが禅でいう大死一番であり、浄土真宗でいう信心決定である。

 僕の(多分歪んでいる)解釈ではキルケゴールはこの「救うけど救われない自分」を救う存在を「神」と言ったのだろうけれど、そして、僕も阿弥陀仏をそのように考えていたのだけれど、恐らくキリスト教のGODと阿弥陀仏は決定的に違う。阿弥陀仏と一体になると、南無阿弥陀仏をすると、自己意識が突破される。阿弥陀仏は僕を救うんじゃなくて、僕自身になって、自己意識を溶かす。
 南無阿弥陀仏
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