最近僕のブログを見てる人が増えているようで、それに伴ってコメントもちらほらついている。大半は僕に対する誹謗中傷?みたいな感じっぽくて、あまりに目に余るものは削除しています。削除するまでもないものは放置しています。
先ほどコメントを頂いたのだが、保存する前に削除してしまった。それについて返信します。
内容は「君は道徳観念が欠落している。君のようなものが宗教を語るから宗教が誤解される。人生観や宗教観を語る前に道徳観念を勉強してください。君みたいな人に仏教を語ってほしくない」というものでした。
仏教には様々な宗派がありますが、僕がシンパシーを感じているのは浄土真宗です。浄土真宗では「悪人正機」を説きます。悪人こそが、阿弥陀仏の救いの対象です。
僕の道徳観念がどうであっても、阿弥陀仏は見捨てません。これを僕のバイブルである歎異抄講話では「倫理以上の信仰」と言っています。
ただ僕に道徳観念が足りていないし、その自覚がないのも確かだと思います。自覚がない、というのが一番の問題で、自分の行いを恥じることを「慚愧」と言います。仏教一般でも、浄土真宗でも慚愧は非常に重要です。
本願ぼこりという言葉があります。
本願誇りほんがんぼこり 親鸞の言葉をもとにして,異端を歎いた『歎異鈔』第 13条に出てくる語。 弥陀の本願に不思議な力がそなわっているからといって,悪を恐れずにふるまうこと。
この本願ぼこりにはなりたくないとは思いますが、僕はしょーもない凡夫なので、悪いことをしてしまうのも事実です。
道徳観念のある奴も道徳観念のない奴も浄土真宗では救われます。僕のブログを見て仏教の何が「誤解」されるのか正直分かりませんでした。浄土真宗と道徳観念は本質的には関係がないと思います。悪は宿業の結果です。
親鸞聖人の道徳観です
「弥陀の本願が広大無辺なのをよいことにして、故意に悪事を行うのは、『本願ぼこり』といって、浄土往生は不可能だ」と言う人がいます。
これは本願の真意を疑い、善や悪がどうして起ってくるかということを理解していないからです。
善き心の起こるのも、そうした起こるべくして起こるのであり、悪行を為すようになるのも、悪行を起こすような原因によってのことなのです。
故親鸞聖人は「兎や羊の毛に付いた塵ほどの罪でも、起こるべき原因によって起こっているのだ」と言っておられました。
またある時、親鸞聖人は、
「唯円房は私の言う言葉を信じるか」と仰せられたので、
「信じます」とお答えしましたら、
「では、私の言うことに背かないだろうな」と念を押されたので、
「その通りにします」とお答えしたところ、
「では、人を千人殺してきなさい。そうすれば浄土往生は確定するぞ」と仰せられましたが、
「仰せではございますが、私の器量では、一人でさえも殺すことは到底出来ません」とお答えしましたところ、
「では、どうして親鸞の言葉に従うと言ったか」と仰せになりました。
「これで分かったであろう。何事でも自分の思い通りに出来るのなら、浄土往生のために人を千人殺せと言われたらその通り殺せるはずだ。
しかし、一人でも殺せないという理由があるから殺すことが出来ないのだ。自分の心が良いからということではない。殺さないでいたいと思っていても、百人も千人も殺すこともあるのだ」と言われました。
これは、自分の心が良ければ、それが良いことであると思ったり、悪い心であれば、悪いことと思う、自分のはからいだけを思い、実は阿弥陀仏の願いの力によって救われるのだという大切なことを忘れていることを言われたことでした。
その昔、間違った考え方にはまってしまった人があって、「悪を造ったものを助けるのが弥陀の本願だ」と、故意に悪行を重ね、往生の種にしようとした人たちがいて、その悪評が親鸞聖人に聞こえたとき、聖人はお手紙に「毒消しの良薬があるからといって、毒を好んで飲んではならない」とお書きになったのは、間違った解釈を止めさせようとされたものです。
決して悪業が往生の障害になるというのではありません。
戒律を守るというだけで、本願を信じないというのであれば、私達はどうして迷いの世界を抜け出せることが出来るでしょうか。
正しいと思っていることも出来ない私であっても、弥陀の本願に出遭うことによって、本願に守り包み込まれて行くのです。
だからといって、自分に備わっていない悪業までを、わざわざ作ることはないでしょう。
「海や川で網を曳き、釣りをして生き物の命を生活の糧とする者も、野山で獣を捕り、鳥を捕ってその命を生活の糧とする者も、商売をし、田畑を耕して生活している者も、みな同じことだ」と仰せられています。
「人はそうしなければならない状況に追い込まれると、どんな行いでもするものだ」と、聖人は仰ったのに、近頃は知ったか振りをして、善人だけが念仏するのだといわんばかりに、念仏の道場に張り紙をして、「○○のことをした者は道場に入ってはならない」などということは、外見は賢者や善人らしく振る舞っていても、内心は嘘いつわりの心を持っているのことになるのではないでしょうか。
たとえ本願に甘えて造る罪であっても、そのようにせずにはおれない状況によって造られるものです。
だから善も悪も、そうしなければならない時はそうしていくものが人間なのだから、出来もしないことに囚われるのではなく、一途に弥陀の本願をたのむということこそが、他力の信心というものです。
「唯信抄」にも、「阿弥陀仏がどれほどの力を持っているのか知りもしないでは、いつでも罪を作ってしまうような私なのですから、とても救われる事は難しいことだと思うべき」と述べられています。
本願に頼り切る心がなければ、他力(阿弥陀仏)を信じる心もしっかりと根付かないでしょう。
悪業・煩悩を断ち切った後に、本願を信じるのというであるなら、本願に頼り切る思いもなくてよいでしょうに。
煩悩を断てば仏になるというのなら、仏になっている者のために五劫思惟もの願が立てられたということは無意味なことになります。
本願ぼこりはいけない、と他人を誡める人々も、煩悩や不浄を備えておられるのです。
それは本願にほこられているのではありません。
どんな悪が本願ぼこりで、どんな悪が本願ぼこり」でないと区別できるのでしょうか。
むしろ幼稚な考えではないでしょうかね。
僕のブログを見て何か仏教に「誤解」を持った人がいたら、こんな道徳観念のないゴミでも救われる教えが浄土真宗だと、知ってください。