ピュアな表現
「精神の肉体」は、沈黙の王座に住む。いかなる生命とも、かかわりはない。それは「表現」の衣を持たない。
「表現」とは所詮、「生命ある世界」のものである。
僕の誠実さは「表現」の中に許容の匂いをいちはやく嗅いだ。———原口統三
全ての表現に純粋さはない。僕はこの「誠実さ」や「純粋さ」を狂おしいほどに求めてきたが、「表現」の中に、それは見つからなかった。「表現」には不純物、夾雑物が「必ず」混入している。どういった不純物か。一番大きいのは、虚栄心である。「ママ、こっちを見て。僕を認めて」という承認欲求である。僕はこの煩悩を、汚らわしいと感じる人間なのだが、この汚らわしい煩悩を隠したまま、「綺麗」な表現をするのは罪悪だと思う。罪である。悪である。嘘である。
表現に混入する不純物は他にもたくさんある。金銭欲である。性欲である。金が欲しいから詩を書くんである。モテたいから音楽をするんである。オフパコをしたいからツイッターをやるんである。そういった根本的な原罪を隠したまま、綺麗な言葉を紡ぐ。これは嘘つきの所業である。僕にはそこまで「鈍感」になれないんである。
僕は精神的な潔癖症である。血で書いた言葉、人格で書いた言葉、本能で書いた言葉しか受け付けられない。だから、アウトサイダーアートは好きである。あれは、生命の表現である。ゴッホも好きである。宮沢賢治も好きである。カフカも好きである。歎異抄も好きである。アルチュールランボーの生き方も好きである。生命が踊っているような表現しか、受け入れられない。「僕を認めてよ」という表現は、マスターベーションなんである。「お金が欲しいよ」という表現は、商売なんである。「モテたいよ」という表現は、発情期のサルなんである。
純粋な表現を求めていたら、鎌倉仏教にたどり着いた。鎌倉仏教の特徴は「専修」ということである。「只管」ということである。「ただ」する。「ただ」坐禅をする。「ただ」念仏をする。坐禅に目的はない。故に、純粋である。僕は坐禅よりも、尊い表現を知らない。念仏に、不純物はない。阿弥陀が「助けるぞ」と吐く真実の言葉である。僕のような汚い人間の口からも出てくる純度100%の慈悲の表現である。煩悩まみれの凡夫が表現をするんじゃない。仏が「南無阿弥陀仏」と名乗りを上げるのだ。純粋な表現は存在した!それが何よりもうれしい。
コメントを書く...
Comments