つまるところ
「結局」という言葉に縛られながら生きてきた。「結局」全部無常だ。「結局」別れる。極めつけは、「結局」みんな死ぬから全部無意味だ。
「結局」という言葉は、全てのプロセスをそこに収斂させる。人生をどういったプロセスで動かすか、ということが大事な人もいるだろうが、僕にとって大事なのは終局だけであった。結局死ぬから何もかも意味ない。削除したブログは、そういった文章でまみれていた。
「畢竟帰処」という言葉がある。これを昭和の名僧が翻訳して、「行きついたところまで行きついた人生」と言っていた。そして、それは坐禅であると。これは凄まじいことをいっているなと直観した。「畢竟」とは「結局」という意味である。結局帰る場所。それは「死」ではなくて「坐禅」なんだと。すさまじい衝撃だった。
仏教の本、親鸞の和讃を読んでいたら、こういう句が出てきた
"畢竟依を帰命せよ"
どんづまりの、「結局」のところにあるものに、帰命しなさい、ということである。どんづまりにあるものは何か?それは言うまでもなく、阿弥陀仏である。「結局」死ぬので何もかも無駄、という世界以外に、他にも潤沢な世界がたくさんあったんだ。「結局」浄土に行かせてもらうので、何もかも尊い。そういう世界がある。「結局」にも、いろいろある。
「結局」という言葉は、全てのプロセスをそこに収斂させる。人生をどういったプロセスで動かすか、ということが大事な人もいるだろうが、僕にとって大事なのは終局だけであった。結局死ぬから何もかも意味ない。削除したブログは、そういった文章でまみれていた。
「畢竟帰処」という言葉がある。これを昭和の名僧が翻訳して、「行きついたところまで行きついた人生」と言っていた。そして、それは坐禅であると。これは凄まじいことをいっているなと直観した。「畢竟」とは「結局」という意味である。結局帰る場所。それは「死」ではなくて「坐禅」なんだと。すさまじい衝撃だった。
仏教の本、親鸞の和讃を読んでいたら、こういう句が出てきた
"畢竟依を帰命せよ"
どんづまりの、「結局」のところにあるものに、帰命しなさい、ということである。どんづまりにあるものは何か?それは言うまでもなく、阿弥陀仏である。「結局」死ぬので何もかも無駄、という世界以外に、他にも潤沢な世界がたくさんあったんだ。「結局」浄土に行かせてもらうので、何もかも尊い。そういう世界がある。「結局」にも、いろいろある。
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