心得たと思うは、心得ぬなり
心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり————蓮如
8月31日に、ソガリョウジン先生の著作を読んでいて、「実は、凡夫が信じる前に、阿弥陀様が凡夫のことを信じている」と書かれてあって、「ああ、そうだったのか」と思って、懺悔、懺悔、懺悔の自分であった。口に出して何度も「ごめんなさい」「ごめんなさい」と言って、今まで仏智を疑っていたこと、計らいが止まなかったこと、先生の言葉を素直に受け取れなかったこと、自分が一番偉いと思っていたこと、懺悔、懺悔、懺悔の限りだった。
心の中の自分が、常に仏様、あるいは世界の全ての者に対して頭を下げていて、自分はなんて偉そうにしていたんだろうと涙が出そうになった(出なかった)
今までは読んでもおとぎ話にしか思えなかったお経や仏教書が、頭の中にスラスラと入ってきて、「今まで僕は何を読んできたんだろう」と思った。
ひたすら、心の中で頭を下げた。
それから、胸のあたりが喜びに溢れて、阿弥陀仏と一体になるとはこういうことかと思った。仏様が胸に住んでらっしゃるようだった。
のは良かったのだけれど。9月1日の夜になると、もう懺悔心はなくなり、お経も疑心なしで読めなくなってしまった。けれども信心の一端は垣間見た気がする。安心、安心、安心だった。常に仏様が胸にいる。
こういうのを自力の信心というんだと思う。早く安心したい。
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