土井ちゃん
個人的に仲良くしているお坊さんがいる。勝手に師匠とあおいでいる。メールでやりとりしているんだけれど、もう数十通はやりとりしたと思う。最近は信心についてメールで質問しているんだけれど、噛み締めないと分からないところなので、メモ帳代わりにここに書いとく。太字:僕 普通の字:土井さん
疑いのあるまま助かるなら、「信心を得る」とか「信前・信後」などはどういった意味があるんでしょう?仏願の生起本末を聞いて疑いのないという信心を得るのが浄土真宗の救いだと思っていました。阿弥陀仏の存在そのものまで疑ってしまうような自分ですが、念仏をしているということはもう救われているということなんでしょうか?
弥陀の本願は「信心を得た者を救う」との誓いでは無くて、「我が名を称えるばかりで助ける」との念仏往生の本願は、「疑いだらけの汝は助からぬものである。その助からぬものをまるまる引き受ける」の大悲を聞いて、「ああこの阿弥陀様なればこそ」といただかざるを得ない。そこに不思議にも大悲が届いて下さって、「阿弥陀仏さまに助けられるばっかり」との信心が不思議にも私に与えられるのです。
ですから本願そのものに何らの条件はありません。条件のない大悲に驚く、そこに私が信心を起こしたのではないし、起こしうるものではない。まったく私はからっぽの無信心のままなりで助けて下さるという「信心」が不思議にも向こうさまから与えられるのですね。
「念仏をしているということは」念佛をきいていること。南無阿弥陀仏を聞いていること。南無阿弥陀仏の仰せは「まるまる引き受ける」「助からぬものを助ける」の仰せです。
「仏願の生起本末を聞いて疑いのないという信心を得る」は教義としてはそうでしょう。しかしその実際は上の通りです。信心をお助けの条件のようにして聞くと、阿弥陀仏の大悲は分かりません。南無仏。
質問ばかりすみません
「疑いばかりの汝を助ける」というのは疑い深い汝も念仏だけで浄土へ往生させるということでしょうか それだと方便仮土へ行ってしまう気がします「疑いばかりの汝をまるまる助ける」というのは「真実浄土へ行くためにお前をそこまで(信心を得られるように)育てるぞ」ということなんでしょうか 真宗は信心正因だと聞いているので、どうしても信心が条件だと思ってしまいます
念佛を称えるだけで助けるぞ、と頂いておけば、その大悲の心が信心として心にやってくるのでしょうか
けれど念仏を称えるだけで助かる、というのは称名正因だという気がしてしまいます
如来から賜る至心信楽欲生我国は必要ないのでしょうか?
念仏だけで助かると聞いていくうちに(称名正因?方便?)、徐々にそういった信心が不思議にも自分の上に現れてくるのでしょうか
阿弥陀仏の本願は「汝は疑いばかりしかない、それでいい」と言われるのではありません。ですから「疑いがあっても、これでいいのだ」と自己肯定することではありません。よく「真宗はこのままでよかったのだ」という点だけを強調していますが、これはややもすると邪見になります。
そうではなくて、「汝は本願を疑う故に、どこまでも助からぬものである」と知らせて下さり、にもかからわず「その助からぬものをこそ助けずにはおかない」の不可思議な大悲のお助けです。
弥陀の本願を疑ってやまない故に、流転を重ねてきたのです。ですから、助かる縁も手がかりもありません。それが助からぬ私そのものです。しかるに、よくよく弥陀の本願をお聞かせいただくと、その助からぬものに、「我が名を称えよ」との仰せは、阿弥陀様が助からぬものに目をかけて下さって、かわいそうであるとの大悲の涙から出た一句が「一声なりとも称えるばかりで助ける」との驚くべき大悲の仰せなのです。
「助からぬものを助ける」それが「極重悪人(助からぬもの)唯称仏(唯称えるばかりで助ける)」の思し召しです。
称名正因ということばそのものが、間違いというのではありません。称名正因というところに大悲を感じるのを信心と言っていいでしょう。ただ「称名正因」を自力として批判的に言う場合は、「称えて助かろう」と念仏を称える功徳によって助けていただこうとする、その場合の称名正因は間違いです。
南無仏
返信ありがとうございます
実は昨日、曽我量深先生の著作を読んでいて、「阿弥陀さまも衆生を信じている」という文章を読んで ああそうだったのかと思って、それから驕慢心への懺悔と感謝の気持ちが湧いてきて、これが信の一念かと思っていたのですがやっぱり時間がたって、今日の夜になってみると、生起本末に疑いが湧いてきましたけれども前よりも疑いは減りました 土井先生が仰っていたように、自分の計らいに値打ちを見なくなったというか…。
これは自力の信心なんでしょうか? こういう風に徐々に疑いというのは薄くなっていくのでしょうか それとも疑いぬいたところの「一念(一瞬)」で一気に弥陀に任せられるように
なるのでしょうか
「疑いがだんだん薄くなってすくわれるのか、それとも疑い抜いて一気に弥陀にお任せするようになるのか」ということですが、これみな自分の方をむいています。
そうではなく、阿弥陀仏が「汝には信心の起こりようない、唯除かれた存在である。疑いばかりしかないゆえ助からぬものである」と私の本性を見抜いて仰せ下さっているお言葉を聞くばかりであって、それを聞いている私が「疑いが薄くなるか、それとも疑いをもっと徹底せねばならぬか」というような事ではありません。
10年聞いても20年聞いても、「汝は法謗闡提の疑いだらけの者だ」仰せ下さる今の仰せを聞かせていただくばかりです。聞いている私がどう変わるのでも無く、どうする必要もありません。まるまるダメな奴です。疑いが薄くなるとか、疑いの塊のなれば任せられる、ように思っていることがまだ自分が何とかなれると思っているからです。
南無仏
毎度質問ばかりすみません 「如来からいつのまにか信心を賜ってそれが因(条件?)になって往生する」と思っていたので、浄土真宗の信心が混乱してしまいました 十八願の「至心に信楽して」というのを条件だと思ってしまいます
至心信楽欲生について、教行信証の解説書を読んだりしたのですが 難しくてよくわかりませんでした・・・ 至心信楽欲生というのは条件ではないのでしょうか 親鸞聖人はどのように解釈してるのでしょうか
浄土真宗について混乱してしまったので、浄土真宗について基礎的なことを書いてるホームページをいろいろ見てみました
>「信じるということ」は子猿のように「つかまる」ことではなく、子猫のように「つかまれる」ことだと言えます。私が信じるから救われるのではなく、阿弥陀さまが必ず助かると信じてくださっているので、私たちは救われるのです。救われる根拠は私の信にはありません。阿弥陀さまが助かると信じてくださっている安心の心が私に映る(移る)こと、その安心の心が信心なのです。「如来よりたまわりたる信心」こそ他力の信なのです。
>救い取ってくださるのは阿弥陀さまです。だから今一度、阿弥陀さまのお慈悲を聞いてみてください。いつでも「そのまま救う」の親さまです。疑う私を救わないとはおっしゃっていません。疑う私に、そのまま救うとはたらいてくださる広大なお慈悲に遇って、あんなに
取れなかった疑い心が取られてしまいます。
疑いよここ聞き分けていんでたも そちがいるゆえ信が得られぬ
疑いにここを退(の)けとは無理なこと 胸を離れて何処に行きましょ
疑いよ是非行かぬならそこに居よ そちに構わず信を取るべし
疑いは何処に居るかと問うたれば 代わりに出て来る念仏の声
の歌のように、阿弥陀様が「疑い深い汝も念仏一つでまるまる救うぞ」と仰っている大悲を聞いていると、徐々に「疑い心」が取られて、代わりに念仏の声が出てくるのでしょうか
信心を私を助けて下さる条件と受け取るなら、助かることは極めて難しいことになります。いや不可能になります。十八願の「至心信楽欲生我国」は法蔵菩薩の願いであって私に対する要求ではありません。すなわち一切衆生に本願を信じさせたい、信心を与えて救いたいのお心です。「本願を本当と信じさせて我が国に生まれさせたい」の法蔵菩薩の願心です。
阿弥陀仏のお助けは無条件のお助けです。しかし、私たちが無条件のお助けであったと知らなければ、無条件のお助けは私のお助けになりません。本当に無条件のお助けであったと受け取るのを信心といいます。
そして無条件のお助けは無条件のお助けを聞かなければいつまでも分からないままです。ですから念仏聞法するのです。
ではどうして私に信心が与えられるかと申しますと、本願の名号を称えさせ聞かせてくださることによって、衆生が本願(まるまる助ける。助からぬものを助ける)の大悲心を聞くことによって、不思議にも大悲が凡夫の私の心に届くのですね。回向されるのです。
それは聞くことによって疑いが薄くなるということよりも、むしろ「疑いだらけの助からぬ私」という、救われがたき身を知らされ、同時にこんな者に阿弥陀様は「助からぬ汝を救わずにはおかない」と立ち上がって下さったという大悲が知らされるのです。南無仏
無条件のお助けというのがなかなか腑に落ちません…。腑に落ちたら信心ということになるんでしょうが
例えば疑いながら念仏をしている僕のような人間は、今死ぬとまた輪廻するか、方便仮土に行くと思います
僕の教義理解がおかしいんでしょうか 疑いながら念仏してそのまま死んでしまっても真実浄土へ行けるのでしょうか
南無阿弥陀仏を「まるまる助ける」と聞いても「でも信心のない自分は救ってくれないんでしょう」と考えてしまいます
本当に「無条件」ならば今のまま助かっているので何もしなくていいとも考えてしまいます
また考え方がさかさまになったりしているでしょうか
「 無条件のお助けというのがなかなか腑に落ちません…。腑に落ちたら信心ということになるんでしょうが
例えば疑いながら念仏をしている僕のような人間は、今死ぬとまた輪廻するか、方便仮土に行くと思います僕の教義理解がおかしいんでしょうか 疑いながら念仏してそのまま死んでしまっても真実浄土へ行けるのでしょうか」
疑いながらも念佛一行に定まった人は「方便仮土」へ生まれさせてついには真実報土に往生せしめずにはおかないという二十願がかけられています。有り難いですね。十八願の大悲がさらに二十願にまで手をさしのべて下さっているのです。
「南無阿弥陀仏を「まるまる助ける」と聞いても「でも信心のない自分は救ってくれないんでしょう」と考えてしまいます 本当に「無条件」ならば今のまま助かっているので何もしなくていいとも考えてしまいますまた考え方がさかさまになったりしているでしょうか」
ええ、逆さまなのですね。「信心のない自分」と本当に感じたら、「そんなお前だからこそまるまる助ける、我が名を称えるばかりでよい」の絶大な大悲心が有り難いではありませんか。南無仏。
疑いのあるまま助かるなら、「信心を得る」とか「信前・信後」などはどういった意味があるんでしょう?仏願の生起本末を聞いて疑いのないという信心を得るのが浄土真宗の救いだと思っていました。阿弥陀仏の存在そのものまで疑ってしまうような自分ですが、念仏をしているということはもう救われているということなんでしょうか?
弥陀の本願は「信心を得た者を救う」との誓いでは無くて、「我が名を称えるばかりで助ける」との念仏往生の本願は、「疑いだらけの汝は助からぬものである。その助からぬものをまるまる引き受ける」の大悲を聞いて、「ああこの阿弥陀様なればこそ」といただかざるを得ない。そこに不思議にも大悲が届いて下さって、「阿弥陀仏さまに助けられるばっかり」との信心が不思議にも私に与えられるのです。
ですから本願そのものに何らの条件はありません。条件のない大悲に驚く、そこに私が信心を起こしたのではないし、起こしうるものではない。まったく私はからっぽの無信心のままなりで助けて下さるという「信心」が不思議にも向こうさまから与えられるのですね。
「念仏をしているということは」念佛をきいていること。南無阿弥陀仏を聞いていること。南無阿弥陀仏の仰せは「まるまる引き受ける」「助からぬものを助ける」の仰せです。
「仏願の生起本末を聞いて疑いのないという信心を得る」は教義としてはそうでしょう。しかしその実際は上の通りです。信心をお助けの条件のようにして聞くと、阿弥陀仏の大悲は分かりません。南無仏。
質問ばかりすみません
「疑いばかりの汝を助ける」というのは疑い深い汝も念仏だけで浄土へ往生させるということでしょうか それだと方便仮土へ行ってしまう気がします「疑いばかりの汝をまるまる助ける」というのは「真実浄土へ行くためにお前をそこまで(信心を得られるように)育てるぞ」ということなんでしょうか 真宗は信心正因だと聞いているので、どうしても信心が条件だと思ってしまいます
念佛を称えるだけで助けるぞ、と頂いておけば、その大悲の心が信心として心にやってくるのでしょうか
けれど念仏を称えるだけで助かる、というのは称名正因だという気がしてしまいます
如来から賜る至心信楽欲生我国は必要ないのでしょうか?
念仏だけで助かると聞いていくうちに(称名正因?方便?)、徐々にそういった信心が不思議にも自分の上に現れてくるのでしょうか
阿弥陀仏の本願は「汝は疑いばかりしかない、それでいい」と言われるのではありません。ですから「疑いがあっても、これでいいのだ」と自己肯定することではありません。よく「真宗はこのままでよかったのだ」という点だけを強調していますが、これはややもすると邪見になります。
そうではなくて、「汝は本願を疑う故に、どこまでも助からぬものである」と知らせて下さり、にもかからわず「その助からぬものをこそ助けずにはおかない」の不可思議な大悲のお助けです。
弥陀の本願を疑ってやまない故に、流転を重ねてきたのです。ですから、助かる縁も手がかりもありません。それが助からぬ私そのものです。しかるに、よくよく弥陀の本願をお聞かせいただくと、その助からぬものに、「我が名を称えよ」との仰せは、阿弥陀様が助からぬものに目をかけて下さって、かわいそうであるとの大悲の涙から出た一句が「一声なりとも称えるばかりで助ける」との驚くべき大悲の仰せなのです。
「助からぬものを助ける」それが「極重悪人(助からぬもの)唯称仏(唯称えるばかりで助ける)」の思し召しです。
称名正因ということばそのものが、間違いというのではありません。称名正因というところに大悲を感じるのを信心と言っていいでしょう。ただ「称名正因」を自力として批判的に言う場合は、「称えて助かろう」と念仏を称える功徳によって助けていただこうとする、その場合の称名正因は間違いです。
南無仏
返信ありがとうございます
実は昨日、曽我量深先生の著作を読んでいて、「阿弥陀さまも衆生を信じている」という文章を読んで ああそうだったのかと思って、それから驕慢心への懺悔と感謝の気持ちが湧いてきて、これが信の一念かと思っていたのですがやっぱり時間がたって、今日の夜になってみると、生起本末に疑いが湧いてきましたけれども前よりも疑いは減りました 土井先生が仰っていたように、自分の計らいに値打ちを見なくなったというか…。
これは自力の信心なんでしょうか? こういう風に徐々に疑いというのは薄くなっていくのでしょうか それとも疑いぬいたところの「一念(一瞬)」で一気に弥陀に任せられるように
なるのでしょうか
「疑いがだんだん薄くなってすくわれるのか、それとも疑い抜いて一気に弥陀にお任せするようになるのか」ということですが、これみな自分の方をむいています。
そうではなく、阿弥陀仏が「汝には信心の起こりようない、唯除かれた存在である。疑いばかりしかないゆえ助からぬものである」と私の本性を見抜いて仰せ下さっているお言葉を聞くばかりであって、それを聞いている私が「疑いが薄くなるか、それとも疑いをもっと徹底せねばならぬか」というような事ではありません。
10年聞いても20年聞いても、「汝は法謗闡提の疑いだらけの者だ」仰せ下さる今の仰せを聞かせていただくばかりです。聞いている私がどう変わるのでも無く、どうする必要もありません。まるまるダメな奴です。疑いが薄くなるとか、疑いの塊のなれば任せられる、ように思っていることがまだ自分が何とかなれると思っているからです。
南無仏
毎度質問ばかりすみません 「如来からいつのまにか信心を賜ってそれが因(条件?)になって往生する」と思っていたので、浄土真宗の信心が混乱してしまいました 十八願の「至心に信楽して」というのを条件だと思ってしまいます
至心信楽欲生について、教行信証の解説書を読んだりしたのですが 難しくてよくわかりませんでした・・・ 至心信楽欲生というのは条件ではないのでしょうか 親鸞聖人はどのように解釈してるのでしょうか
浄土真宗について混乱してしまったので、浄土真宗について基礎的なことを書いてるホームページをいろいろ見てみました
>「信じるということ」は子猿のように「つかまる」ことではなく、子猫のように「つかまれる」ことだと言えます。私が信じるから救われるのではなく、阿弥陀さまが必ず助かると信じてくださっているので、私たちは救われるのです。救われる根拠は私の信にはありません。阿弥陀さまが助かると信じてくださっている安心の心が私に映る(移る)こと、その安心の心が信心なのです。「如来よりたまわりたる信心」こそ他力の信なのです。
>救い取ってくださるのは阿弥陀さまです。だから今一度、阿弥陀さまのお慈悲を聞いてみてください。いつでも「そのまま救う」の親さまです。疑う私を救わないとはおっしゃっていません。疑う私に、そのまま救うとはたらいてくださる広大なお慈悲に遇って、あんなに
取れなかった疑い心が取られてしまいます。
疑いよここ聞き分けていんでたも そちがいるゆえ信が得られぬ
疑いにここを退(の)けとは無理なこと 胸を離れて何処に行きましょ
疑いよ是非行かぬならそこに居よ そちに構わず信を取るべし
疑いは何処に居るかと問うたれば 代わりに出て来る念仏の声
の歌のように、阿弥陀様が「疑い深い汝も念仏一つでまるまる救うぞ」と仰っている大悲を聞いていると、徐々に「疑い心」が取られて、代わりに念仏の声が出てくるのでしょうか
信心を私を助けて下さる条件と受け取るなら、助かることは極めて難しいことになります。いや不可能になります。十八願の「至心信楽欲生我国」は法蔵菩薩の願いであって私に対する要求ではありません。すなわち一切衆生に本願を信じさせたい、信心を与えて救いたいのお心です。「本願を本当と信じさせて我が国に生まれさせたい」の法蔵菩薩の願心です。
阿弥陀仏のお助けは無条件のお助けです。しかし、私たちが無条件のお助けであったと知らなければ、無条件のお助けは私のお助けになりません。本当に無条件のお助けであったと受け取るのを信心といいます。
そして無条件のお助けは無条件のお助けを聞かなければいつまでも分からないままです。ですから念仏聞法するのです。
ではどうして私に信心が与えられるかと申しますと、本願の名号を称えさせ聞かせてくださることによって、衆生が本願(まるまる助ける。助からぬものを助ける)の大悲心を聞くことによって、不思議にも大悲が凡夫の私の心に届くのですね。回向されるのです。
それは聞くことによって疑いが薄くなるということよりも、むしろ「疑いだらけの助からぬ私」という、救われがたき身を知らされ、同時にこんな者に阿弥陀様は「助からぬ汝を救わずにはおかない」と立ち上がって下さったという大悲が知らされるのです。南無仏
無条件のお助けというのがなかなか腑に落ちません…。腑に落ちたら信心ということになるんでしょうが
例えば疑いながら念仏をしている僕のような人間は、今死ぬとまた輪廻するか、方便仮土に行くと思います
僕の教義理解がおかしいんでしょうか 疑いながら念仏してそのまま死んでしまっても真実浄土へ行けるのでしょうか
南無阿弥陀仏を「まるまる助ける」と聞いても「でも信心のない自分は救ってくれないんでしょう」と考えてしまいます
本当に「無条件」ならば今のまま助かっているので何もしなくていいとも考えてしまいます
また考え方がさかさまになったりしているでしょうか
「 無条件のお助けというのがなかなか腑に落ちません…。腑に落ちたら信心ということになるんでしょうが
例えば疑いながら念仏をしている僕のような人間は、今死ぬとまた輪廻するか、方便仮土に行くと思います僕の教義理解がおかしいんでしょうか 疑いながら念仏してそのまま死んでしまっても真実浄土へ行けるのでしょうか」
疑いながらも念佛一行に定まった人は「方便仮土」へ生まれさせてついには真実報土に往生せしめずにはおかないという二十願がかけられています。有り難いですね。十八願の大悲がさらに二十願にまで手をさしのべて下さっているのです。
「南無阿弥陀仏を「まるまる助ける」と聞いても「でも信心のない自分は救ってくれないんでしょう」と考えてしまいます 本当に「無条件」ならば今のまま助かっているので何もしなくていいとも考えてしまいますまた考え方がさかさまになったりしているでしょうか」
ええ、逆さまなのですね。「信心のない自分」と本当に感じたら、「そんなお前だからこそまるまる助ける、我が名を称えるばかりでよい」の絶大な大悲心が有り難いではありませんか。南無仏。
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