自己分裂 救い
実存哲学やロシア文学、近代日本文学、宗教的日記を読んでいると、「自己分裂」というモチーフが出てくる。自分aが自分bに働きかける。自分aが自分bを見ている。「誠実さ」という観点からこの自己分裂を考えると、自分aを自分bが見ている、その自分bを自分cが見ている、その自分cを自分dが見ている、という風に無限背信してしまう。どこかに「見ている」自分というのが現れるので、「ジャッジをする主体」という「自分」が残ってしまう。これが「卑怯さ」の根源だと思う。
「芸術家は自分で自分を救っている」と友達が言っていた。衒学おじさんに「宗教しなくても自分で自分を救えばいいんじゃないの?」と言われた。自分は自分を救えないよ。だって「救う自分」は「救われない」んだから。自分bが自分aを救う。自分bのことは誰が救うの?自分c。自分cのことは?最終的に「救う自分」は「救われない」。「救う自分」という主体は救われない、救うことはできるけれど、救われることはできない。「主体」は「残滓」だ。
自分が自分を見ているという近代的な自己意識の突破。それが禅でいう大死一番であり、浄土真宗でいう信心決定である。
僕の(多分歪んでいる)解釈ではキルケゴールはこの「救うけど救われない自分」を救う存在を「神」と言ったのだろうけれど、そして、僕も阿弥陀仏をそのように考えていたのだけれど、恐らくキリスト教のGODと阿弥陀仏は決定的に違う。阿弥陀仏と一体になると、南無阿弥陀仏をすると、自己意識が突破される。阿弥陀仏は僕を救うんじゃなくて、僕自身になって、自己意識を溶かす。
南無阿弥陀仏
「芸術家は自分で自分を救っている」と友達が言っていた。衒学おじさんに「宗教しなくても自分で自分を救えばいいんじゃないの?」と言われた。自分は自分を救えないよ。だって「救う自分」は「救われない」んだから。自分bが自分aを救う。自分bのことは誰が救うの?自分c。自分cのことは?最終的に「救う自分」は「救われない」。「救う自分」という主体は救われない、救うことはできるけれど、救われることはできない。「主体」は「残滓」だ。
自分が自分を見ているという近代的な自己意識の突破。それが禅でいう大死一番であり、浄土真宗でいう信心決定である。
僕の(多分歪んでいる)解釈ではキルケゴールはこの「救うけど救われない自分」を救う存在を「神」と言ったのだろうけれど、そして、僕も阿弥陀仏をそのように考えていたのだけれど、恐らくキリスト教のGODと阿弥陀仏は決定的に違う。阿弥陀仏と一体になると、南無阿弥陀仏をすると、自己意識が突破される。阿弥陀仏は僕を救うんじゃなくて、僕自身になって、自己意識を溶かす。
南無阿弥陀仏
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