人生入門

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生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

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詩入門
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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

地獄行き

 今井昇道という人の本を最近読み漁っている。100年前ぐらいに活躍した人で、ネットで本が無料で読める。まとめる

 凡夫が「信じる」とか「たのむ」とかいうのは仏様にとってなんの意味もないことで、凡夫が信じようとたのもうとそんなことは浄土往生のなんの足しにもならない。凡夫の信じようとかたのみようとか称えようとか、全然関係ない。

 凡夫が信じようと信じまいと、凡夫が地獄行きなのは変わらない。凡夫の「思い」とか、そういうの全然関係ない。何をしようと地獄行き。

 サァ どうする、どうする

正しさを証明するために生きる

 一時期仏教の流れで「エゴ克服系」のスピリチュアル本を読み漁っていた。スピリチュアル本なんて馬鹿にしていたけれど、結構本質的なことが書かれてあったりする。
 幼少期に「自分は誰にも愛されない」という「自我」が構築されると、「自分は誰にも愛されない」という自我意識を「証明」するように人生を構築するようになる。幼少期に愛されなかった人がDVや犯罪のターゲットになるのをよく見てきた。
 
 「自分は不幸なんだ」「自分はメンヘラなんだ」という「不幸な自我」があると、それを証明するような生き方をしてしまう。自分が不幸になるように、「やっぱり自分は不幸なんだな、私は正しい」と思えるように、生きてしまう。変な恋愛をやってみたり、自傷をしてみたり。自分の不幸を証明し続けるために生きているような人を何人も知っている。そういう人は「幸せが怖い」という。「不幸な自分」というアイデンティティが崩れ去ってしまうから怖いのだ。
 
 「やっぱり自分は不幸なんだな」と証明し続ける人生は悲しいと思う。「やっぱり私ってサイコー!」という自我を証明し続ける人生のがよっぽどいいと思う。
 自我を改造するには、認知療法か、瞑想が一番いい。

負ける

 僕は負け組だ。高校を中退して、7年引きこもって、職歴もなく、将来性もなく、ルックスも金も社会的地位もない。
 高校生までは、僕は勝ち続けていた。僕は大の負けず嫌いだった。小学生中学生の頃は、足が死ぬほど速かった。誰にも負けたことがなかった。比喩ではなくて、本当に誰にも負けたことがなくて、他校の足の速い奴と走っても負けなかった。その時はウサインボルトの横を走っても、勝てるような気がしていた。
 勉強もできて、常に順位は5位以内だった。塾にもいかず、テスト勉強もせずに、この順位だったので、自分は勝つ人間なんだと思っていた。
 高校に入ってからは、普通科に入ったからには東大に行こうと思って、猛勉強した。クラスでは常に1位だった。学校全体では僕に勝ってる奴もいたが、僕は1年生の頃は英語にしかフォーカスしていなかったので(そういう戦略だった)、英語だけは常に1位だった。1年生で、大学の過去問を解いていた。
 で、肺の病気になって、走れなくなった。繰り返す手術入院や、発達障害で登校が厳しくなり、引きこもった。負け組人生まっしぐら。自分よりも勉強できていなかった人間が、そこそこの大学へ行って、就職して、まあ、そのうち家庭を持つんだろう。
 前にも書いたけど、正常な人間は「普通」から脱落すると、必ず「負い目」を持つ。僕にも負い目はある。もう、世間並みに勝ちたいという欲求はなくなったけれど、普通になりたいという思いはある。まあ、無理なんだけれど。

 仏法を学んで、負けるのも美徳なんだなと学んだ部分がある。「負けるが勝ち」とまでは今は言えない。そこまで僕は「負け」に成熟していない。けれどきっと、阿弥陀様に完全に負けて、負けて負けて負けた人生も、他力の導きだったと思うところまで阿弥陀仏に「負け」れば、また違う世界が見えるんだろうな、と思う。負けてよかったと思うところまで、負けたい。参った、降参、救われた。

 一蓮院講師いわく。勝つに骨折るが驕慢、負けるに骨折るが仏法なり。

信次郎、是からは、唯負ける事に骨を折るぢやぞや。  
  
 
 

悲しき日々

 人から貰った手紙を読み返して泣いている。その日々には何があったのか、そもそも何かがあったのか、何もなかったのか。
 僕は、短い期間に、母親と恋人という、自分の一番良き理解者を一気に失った。僕は他者にあまり興味がなかったのだけれど、他者について思考せざるを得なくなった。思考は外部からやってくる。

 僕は人に「本音」というものを一度も言ったことがないし(言ったら距離をおかれるだけだろう)それは親も恋人も同じことで、僕の「本音」を知っているのは、僕か仏ぐらいしかいない。

 手紙には「ずっと一緒にいようね」と書かれてあった。裏切った気持ちにもなったし、裏切られた気持ちにもなった。仮面を被りながら一緒にいた僕と、ずっと一緒にいてくれなかった母親と恋人。悲しき日々だった。僕は本音が言いたかった。書きながら泣いている。

 僕の本当の弱さを抱きしめてほしかった。偽りの弱さしか表に出すことができなかった。母親に、本当の弱さを、ぶちまけてみたかった。今みたいに、声をあげてなきながら、僕の醜悪なところを全部言いたかった。そして抱きしめてほしかった。

 悲しき日々だった。僕は、母親にブログと短歌と詩を見せた。母親は泣いていた。「けんちゃんのツラさが分かるようだよ」と言っていた。僕が本音の片鱗を見せたのは、母親とずっと一緒にいた22年間のその時だけだったかもしれない。

 僕は醜悪な人間で…。醜悪な人間です。本当に醜悪だ。何もかも嘘ばかり。どれだけ懺悔しても、許してくれる人はもういない。

認識できないもの

 阿弥陀仏とは何か 
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。———親鸞

 
 それは、色もなく、形もなく、心で思い浮かべることもできず、言葉で表すこともできない。「真理」そのものだと言っていい。法、ダルマ。そしてどこにでもあり、いつでもある。どこにでもあり、いつでも存在するものだが、凡夫の目は曇っているので、凡夫には認識することができない。
 この「認識できないもの」が「認識できるもの」になって表れたのが「南無阿弥陀仏」であって、その「南無阿弥陀仏(お前を助ける)」といった真理から出てきた言葉に随順することで、真理そのものである浄土(いろもなくかたちもない)へ行くことができる。

 この「認識できないもの」というのは近代哲学でもいろいろなパターンで現れている。一番分かりやすいのはカントの「物自体」という概念で、人間は「時間」「空間」という形式でしかモノを認識することができないので、時間空間を超えた「物自体」は認識できない、とした。凡夫はバカなので阿弥陀仏を認識できないというのとほぼパラレルだ。
 このカントの哲学をちょっと変えたのがショーペンハウアーで、この「物自体」を「意志」だとした。この「意志」はほぼ、仏教でいう煩悩のことで、煩悩が形になったものを「表象」という。「意志」そのものは認識できず、「表象」だけ認識することができる。阿弥陀仏の場合、「認識できないもの」は「慈悲」だが、ショーペンハウアーは「煩悩」だとした。世界の根底にあるのは慈悲だとするのが浄土真宗で、煩悩だとするのがショーペンハウアーだ。
 ニーチェもこの世にあるのは「解釈」だけで、意志が意志を解釈するしかないと言った。ニーチェも根底にあるのは煩悩だ。

 人間はバカだから「認識できないもの」がある。これはカント以降の哲学者が大方認めていることで、では、その「認識できないもの」がどのように現れるのか、どのような性質なのかということで意見が割れている。

 認識できない真理が、慈悲によって現れたものが南無阿弥陀仏の名号だ。僕はこれが真理だと思う。認識できないものを認識した人=聖者は、世界の根底には愛、至福、平和があると口を揃えて言っている。その認識できない真理に随順すること。認識できない真理が凡夫の心に流れ込むこと。それが救いだ。

依存 イメージ 恋愛 過去

 人間は「如実知見」することができない。凡夫の目は曇っている。自分の「尺度」で相手を見る。その尺度はどこから生成されるのか。それは「過去」である。過去から積み重なってきた「思い出」「イメージ」を、「相手」だと誤認する。人間は人間を理解することができない。過去から積み重なってきた「イメージ」と関係するだけだ。
 「こういうことしてたからこういう人なんだな」という過去を積み上げて「その人」という「虚像」を作る。これが人間関係のメカニズムで、恋愛は特にこの傾向が強い。

 某掲示板で「依存させてください」と書き始めたのは僕だ。当時は直接的に「依存」という言葉を使って募集している人はいなかった。だから目新しくて、たくさん人が来た。「依存させてください 15歳男」
 僕は目立ちたかったからそういう書き込みをしてたけれど、今そう書き込んでる人は、本当にインスタントに依存したくてそういう書き込みをしているらしい。「依存させてください」「はい いいですよ」で関係が築けるわけがない。過去という虚像がないから。
 
 
君がバラのために使った時間が長ければ長いほど、バラは君にとって大切な存在になるんだ————星の王子様

死ぬこと以外かすり傷

 「死ぬこと以外かすり傷」という言葉がバズったことがある。裏を返せば「死ぬことは重症」「死ぬことは死ぬこと」である。
 「死ぬこと以外のつらいことは全部かすり傷だよ」という意味だろうけど、僕はこの「かすり傷」というのが人生のつらいことだけでなく、全てのものに当てはまるように思ってしまう。死ぬこと以外かすり傷ならば、嬉しいことも悲しいことも全部ハダを撫でる程度のことということだろう。「死」だけが「死」であり、他は楽しくても悲しくてもしょうもない怪我だ。
 
 人生の本質は「愛」と「死」だと思う。慈悲と涅槃と言ってもいい。それ以外は枝葉末節どうでもいいことで、ブランド品を買おうが、偉くなろうが、病気になろうが、失恋しようが、全部「かすり傷」だ。ひっかき傷だ。

 愛と死を知らない人生はくだらないと思う。恋愛は我執からくる依存で、愛ではない。愛と死を知らない人生は全てが「かすり傷」だと思う。ソクラテスは吟味されない人生は生きる価値がないと言った。俺の人生は生きる価値があるだろうか。

 僕の価値観は異常らしい。みんな異性や金や競争のために生きてるらしい。全部かすり傷だと思ってしまう。

 僕の価値観は異常らしい。みんな死ぬのに、なんで生きてるんだろう。

事実

存在するとは知覚されることである。—————ジョージ・バークリー

よう「この目でみた」と確かそうに言いよるが、その目がアヤシイんじゃ。凡夫の目じゃないか。—————澤木興道


 ジョージバークリーという哲学者は、世界の全てを観念、「思い」だと主張した。僕の考えている思考も、目に見えている机も、キーボードの堅さも、死んだ母親も、元カノも、リンゴの赤さも、全て観念、「思い」だと主張した。この主張は反駁できないものだと思う。唯物論が当然となっている現代では全てが観念だという主張は受け入れがたいが、反論は難しい。だって「知覚」したものは「存在」して、「知覚」しないものは「存在」しないのは明らかだからだ。全て「僕にとって」「知覚」されたものは「僕にとって」「存在」していて、その逆はその反対になる。僕の部屋に入る前に、「僕にとって」僕の部屋は「存在」したか?していない。存在するとは知覚されることである。
 けれども物事には必ず原因がある。その「知覚=観念=存在」の原因を、ジョージバークリーは「神」だとした。「物質」があって、その「物質」が僕の目という「物質」に届いて、それが「観念」になるというのが現代の常識だと思うけれど、バークリーは「神」が原因となって、人間の「精神」に「知覚」を表象させると考えた。

 すべては「思い」だとすると仏教的に言うとそれは「凡夫の目」で見た「思い」だということになる。だから、正しいものではない。
 「思いは自力、事実は他力」という言葉が浄土真宗の説教で流行ったことがあるらしい。ここでいう「思い」は心の中の「思い」のことだと思うけれど、バークリーのように世界全てを「思い」だと考えることも可能だと思う。凡夫の心の中の「思い」や目に見える「思い」などは、用がない。他力だけが事実だ。「思い」は夢だ。凡夫の世界の「思い」の根底には、慈悲と光の「他力」の「事実」がある。

 神や仏は人間の心が作ったものだと、みんな言う。けれども神や仏は人間の心「以前」にある。「思い以前」にたどり着くには信仰しかないんだろう

思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。—————澤木興道

江州草津驛、合羽屋某に対せられての仰せに。  或ときは往生一定と思い、或ときは往生不定と思う。この二つをすてて、ただ弥陀をたのむことじゃ。———香樹院徳龍

自分が分からない

 自分がどういう人間なのか分からない。反省しても反省しても分からない。「自己」というのは白い紙、もしくは鏡みたいなもので、それ自体はなんの性質も持っていないものだと思う。そこに「別の自己」や「他人」、「社会」が色をつけていくのだと思う。僕は他者や社会というファクターが欠落しているので、自分の紙が何色なのかハッキリしない。まあ、結局どんな色をしているにしても、絶対的に分からないのが「白紙」の性質で、それを「孤独」というのだと思う。

 ネットで、変わってるね、可愛いね、賢そうだね、案外普通だね、好き、嫌い、いろいろなことを言われるけれど、それはその人の目に映った僕の虚像であって、僕の白紙につく薄い色でしかない。僕は誰なんだろう。
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