認識できないもの
阿弥陀仏とは何か
それは、色もなく、形もなく、心で思い浮かべることもできず、言葉で表すこともできない。「真理」そのものだと言っていい。法、ダルマ。そしてどこにでもあり、いつでもある。どこにでもあり、いつでも存在するものだが、凡夫の目は曇っているので、凡夫には認識することができない。
この「認識できないもの」が「認識できるもの」になって表れたのが「南無阿弥陀仏」であって、その「南無阿弥陀仏(お前を助ける)」といった真理から出てきた言葉に随順することで、真理そのものである浄土(いろもなくかたちもない)へ行くことができる。
この「認識できないもの」というのは近代哲学でもいろいろなパターンで現れている。一番分かりやすいのはカントの「物自体」という概念で、人間は「時間」「空間」という形式でしかモノを認識することができないので、時間空間を超えた「物自体」は認識できない、とした。凡夫はバカなので阿弥陀仏を認識できないというのとほぼパラレルだ。
このカントの哲学をちょっと変えたのがショーペンハウアーで、この「物自体」を「意志」だとした。この「意志」はほぼ、仏教でいう煩悩のことで、煩悩が形になったものを「表象」という。「意志」そのものは認識できず、「表象」だけ認識することができる。阿弥陀仏の場合、「認識できないもの」は「慈悲」だが、ショーペンハウアーは「煩悩」だとした。世界の根底にあるのは慈悲だとするのが浄土真宗で、煩悩だとするのがショーペンハウアーだ。
ニーチェもこの世にあるのは「解釈」だけで、意志が意志を解釈するしかないと言った。ニーチェも根底にあるのは煩悩だ。
人間はバカだから「認識できないもの」がある。これはカント以降の哲学者が大方認めていることで、では、その「認識できないもの」がどのように現れるのか、どのような性質なのかということで意見が割れている。
認識できない真理が、慈悲によって現れたものが南無阿弥陀仏の名号だ。僕はこれが真理だと思う。認識できないものを認識した人=聖者は、世界の根底には愛、至福、平和があると口を揃えて言っている。その認識できない真理に随順すること。認識できない真理が凡夫の心に流れ込むこと。それが救いだ。
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。———親鸞
それは、色もなく、形もなく、心で思い浮かべることもできず、言葉で表すこともできない。「真理」そのものだと言っていい。法、ダルマ。そしてどこにでもあり、いつでもある。どこにでもあり、いつでも存在するものだが、凡夫の目は曇っているので、凡夫には認識することができない。
この「認識できないもの」が「認識できるもの」になって表れたのが「南無阿弥陀仏」であって、その「南無阿弥陀仏(お前を助ける)」といった真理から出てきた言葉に随順することで、真理そのものである浄土(いろもなくかたちもない)へ行くことができる。
この「認識できないもの」というのは近代哲学でもいろいろなパターンで現れている。一番分かりやすいのはカントの「物自体」という概念で、人間は「時間」「空間」という形式でしかモノを認識することができないので、時間空間を超えた「物自体」は認識できない、とした。凡夫はバカなので阿弥陀仏を認識できないというのとほぼパラレルだ。
このカントの哲学をちょっと変えたのがショーペンハウアーで、この「物自体」を「意志」だとした。この「意志」はほぼ、仏教でいう煩悩のことで、煩悩が形になったものを「表象」という。「意志」そのものは認識できず、「表象」だけ認識することができる。阿弥陀仏の場合、「認識できないもの」は「慈悲」だが、ショーペンハウアーは「煩悩」だとした。世界の根底にあるのは慈悲だとするのが浄土真宗で、煩悩だとするのがショーペンハウアーだ。
ニーチェもこの世にあるのは「解釈」だけで、意志が意志を解釈するしかないと言った。ニーチェも根底にあるのは煩悩だ。
人間はバカだから「認識できないもの」がある。これはカント以降の哲学者が大方認めていることで、では、その「認識できないもの」がどのように現れるのか、どのような性質なのかということで意見が割れている。
認識できない真理が、慈悲によって現れたものが南無阿弥陀仏の名号だ。僕はこれが真理だと思う。認識できないものを認識した人=聖者は、世界の根底には愛、至福、平和があると口を揃えて言っている。その認識できない真理に随順すること。認識できない真理が凡夫の心に流れ込むこと。それが救いだ。
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