人生入門

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哲学書読書計画
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丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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再来年中に読むもの
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疑う必要がない

常に、既に、成就している「南無阿弥陀仏」がある。鈴木大拙は阿弥陀仏を「原初の意志」だと書いていたが、この原初の意志は「思考」以前にある。「思考以前」の「声」が自分を呼んでいる。「心配するな」「今すぐ救う」「お前には何もいらない」「早く助かってくれ」と僕の口から「南無阿弥陀仏」が出る。僕の思考以前に「完成」しているものに、ああだこうだと「はからい」を加える必要がどこにある。南無阿弥陀仏は思考以前だ。「必ず救う」という原初の意志が僕の口から出ている。

「でも思考以前にあるというのは"仮定"じゃないのか?」

と、ごちゃごちゃ考えなくていい。既に救いは完成している。疑いを晴らさなきゃいけないんじゃなくて、疑う必要がなかった。

念仏すれば救われるか?

 一遍上人の語録を読んでいたら、信仰の眼が開けた。浄土真宗を勉強していたのに、一遍上人に気づかされてしまった。
 一遍上人の特色は「信不信を問わず、念佛を称えればそこで救われる」というもので、語録を読んでいると「あ、別に信じなくてもいいんだ、なんだ、信じなくても俺はこのままで救われてるじゃないか」と気づいた。「ナムアミダブツ」が一切だった。信じるも疑うもどちらもいらない、唯の唯の助け、と浄土真宗でも言っている人がいたが、それは「そこまで慈悲深い阿弥陀仏なら信じましょう」というとこまで持っていくための方便だと思う。けれど一遍上人は本気で「信不信を問わず阿弥陀仏は助ける」と言っていて、「なんだ、これでよかったのか」と不思議にも「疑い」がなくなった。ナムアミダブツだけでいいんだ、と。

 南無阿弥陀仏への疑いがなくなった。一時的なものなのかどうかは知らない

 一遍上人の弟子が開いた時宗は、一時期、浄土真宗よりも流行っていたらしい。僕は一遍上人の気持ちが分かるような気がする。最近読んだ親鸞の世界という本で、鈴木大拙がこのように述べていた。
鈴木それだからその、そのときに、自分が正覚を成じたときは阿弥陀仏が正覚を成じておるのみならず、山川草木悉く、成仏すると。で、そのときに、親鸞聖人の、わし一人のために阿弥陀はいろいろ苦労せられたと、こういうが、その実、親鸞聖人一人じゃないんだ、みんながそのとき悉皆成仏しているんだね。
金子さあ、どうですかね。
鈴木そういうところをじっくり磨いていかんとね(笑い)

 浄土真宗の金子大栄がこれに同意するはずがないが、禅の「自分が成仏すると同時に世界も同時に成仏する」という世界に生きている鈴木大拙は、「自分が阿弥陀仏に救われている」というのと「世界が救われている」のが同時に思えたのだと思う。そして、それは一遍上人の感覚と全く同じだったと僕は信じる。
よろず生きとしいけるもの 山河草木 ふく風たつ浪の音までも 念仏ならずといふことなし————一遍

 一遍にとっては世界は救われていた。そして、僕もその気持ちは今なら少しわかる。「信じたものだけが救われる」という世界は少し窮屈だ。僕は浄土真宗の門徒でも時宗の門徒でもないから自由になんでも書ける。僕は、信じたものだけが救われるような阿弥陀仏ではないような気がする。それは少し水臭い。僕の信じている阿弥陀仏は信不信を問わない阿弥陀仏だ。「信不信を問わない」阿弥陀仏を「信じている」

 また勉強していくうちに意見は変わるかもしれない。親鸞聖人が正しいと分かるかもしれない。一遍上人が正しいと分かるのかもしれない。けれど「南無阿弥陀仏」で充分だ、というのは変わらないと思う。どちらにしても自分は南無阿弥陀仏に対する「疑い」はなくしたい、現世がつらいから。(ということは親鸞聖人、浄土真宗に収斂するんだろうな)。
 阿弥陀仏が信じるものを救うのか、それとも信じないものも救うのかどうか知らない。でもこの文章を読んだ人は「ナムアミダブツ」と口で言ってみてほしい。信じなくてもいい。それで救われるかもしれない。信じなくていい。浄土で、会いましょう。

代替品

 スカイプの女と喋ってたら「もっと仲良くて喋りたい人いるけど、その人が構ってくれないから君と喋ってる」って言われてめっちゃ不愉快になったので通話を切った。
 
 人間は消耗品で代替品なんだろうか。その女曰く「みんなそんなもんじゃない?」

 エックハルトトールという自称覚者が「人間は本当の自己を悟ってないからその代替品にいろんなものを欲望する」って言ってたけど、そんな気もする。なんかの漫画の1ページに「原初に人間は決定的なものを失っていてそれを手に入れることはできない」みたいなセリフがあったけど、そんな気もする。ラカンだったら対象aとか言いそうだな。

 要は、アダムとイブが知識の木の実を食べたからよくないんだ。人間には「決定的に失われたもの」があるから、その代替品に人間を求めたり、いろんなものを求めたりする。全ての人間は代替品というのは確かに当たっている。
 「知識」によって失われるものは「知識以前」「言語以前」のもので、それは何かと言えば「般若」であり、「南無阿弥陀仏」である。

二十三歳のエチュード

 二十歳のエチュードという本がある。僕のブログを読んでいる人なら聞き飽きたかもしれない。「誠実さ」を求めて自殺した青年の遺書。僕より精神的な潔癖症の人を初めて見た。僕は何でも「嘘」「虚栄心」「性欲」「利己心」に還元させるが、その僕よりもさらに先鋭化された自意識で、全てのものを批評していった結果、自殺せざるを得なかった詩人。原口統三。あまり有名ではない人だが、僕にとっては決定的な人だった。

 原口統三のアフォリズムで僕がめちゃくちゃ共感できたのはここだ。
  批評とは、他人の中に自己のシルエットを見いだすことにほかならない、というサント・ブーヴの言葉。
 しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
 ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。————原口統三

 原口統三は、キリスト教から派生した近代に殺されたと言ってもいい。ニーチェ主義のある種の徹底化と言ってもいい。ニーチェ曰く
「誠実さ」についてだが、おそらく誰も十分に誠実であったことはない。

 近代人が誠実になろうとして、誠実になれなくて、自殺をした。自殺だけが誠実な行為だった。
 
 宗教は「純粋性」を追及する。僕は、キリスト教から「誠実性」という徳を受け継いだ近代主義が、宗教性を無くしたところに、誠実さという徳を求めて自殺者が現れるのは当然の帰結だったと思う。先ほどの引用のように、自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能なのだから。その代わりに「神」へ「懺悔」するという「誠実さ」の徳を担保するシステムがあったのだろうけど、そのシステムが中抜きされ「誠実さ」という徳だけが残ってしまった。

 浄土真宗ではどのように解決するのか?少し長いけど引用する。自殺という例えも出てきて丁度よい。
 
私が私の三心を否定するのではなくて、阿弥陀さまが私の三心を否定するというのが宗祖の他力義です。

 一番よく解るのが自殺です。譬えばひもをこう首にまいて両手で引張って死んだ人は一人もいない。力いっぱい引張ったら失神まで行くかも知れないが、失神じゃ死なれません。

 あなた方は、ここで小便をしてはならんと思ってはいない。思ってはいないが尿の出口が締ってる。死にますと出るんです。おチンチンだけ生きているというのはないんですからね。

 だから、死ぬ時は非常に楽しいそうです。住職をやめる時と似とりゃせんでしょうかね。なんせ、解放ほどいいものはない。住職は楽しい点もあります。が、その地位の責任から解放される時は楽しいでしょうね。この五体を維持する緊張が、一切解きほぐれていくのが死ですからね。みなたいていお婆さんがにっこり笑うて死ぬるのは、不孝者の倅せがれにとっては救いですね。

 「お婆ちゃんが徴かすかににっこり笑いました」あれはうれしいからじゃない。一切から解き放されたんだ。

 自分で自分の首を締めて自殺することは出来ません。即ち自分が自分を殺すことは出来ないはずです。おかしいでしょう。自分が自分を殺したら、殺した側の自分が生きてなければいけない。それを殺せというのが西山です。そうすると、また殺した側の私がもっと残る。それを殺せ。また残る。これは西山の矛盾です。一が刺して二が刺して、八(蜂)が刺してブンブンという遊びのようですね。酒落たことをいうと双曲線は永久に軸線と交わらない。

 それが現実にお寺参りでいうと、

 「長いこと聴聞を致しましたが、薄紙一枚の所が解りません」

という人です。今日聞いて今日たすかる御法義をですね、二十年も聞いてまだ薄紙一枚残っている。なぜか。薄紙ではないのです。永久に軸線が触れることが出来ない双曲線です。なぜか。一が刺して二が刺してと、ずーっと自己否定を重ねて、最後まで残るのが抜き難い自力ではありませんか。

 それを、阿弥陀さまが罪深いというて下さると、見出されたのが宗祖ですね。これ本当ですね。他殺です。自殺なんてあり得ないわけです。



自分で自分の首を締めて自殺することは出来ません。即ち自分が自分を殺すことは出来ないはずです。おかしいでしょう。自分が自分を殺したら、殺した側の自分が生きてなければいけない。それを殺せというのが西山です。そうすると、また殺した側の私がもっと残る。それを殺せ。また残る。

これは先ほどの原口統三の理屈と全く同じだ。自分を批評する厳しい眼を持つことはできない。なぜなら殺す(批評)する主体側の自力(自己)は必ず残るから。
しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。

ずーっと自己否定を重ねて、最後まで残るのが抜き難い自力ではありませんか。

 自力(批評)を自己で完遂(自殺)することは不可能だ。だから、阿弥陀仏に殺される必要がある。許される必要がある。
それを、阿弥陀さまが罪深いというて下さると、見出されたのが宗祖ですね。これ本当ですね。他殺です。自殺なんてあり得ないわけです。


 これで僕の思想的問題は解決できたはずだ。

ただいま

 引きこもりあるあるに「家にいるのに帰りたいと思う」というのがある。めちゃくちゃわかる。家にずっと引きこもってるのに「あ〜なんか帰りたいなあ」と思う。家にいるのに帰りたい。
 今日、久々に悟りのスピリチュアルの本を読んで、「ホームに帰る」という表現を見て、ハッとした。悟りというのは「家に帰る」ことなんじゃないか。道元禅師も「悟った心というのは全てのものに親しみのある心」と言っている。どこに行っても何もかも自分に親しい、家みたいな状態で、「ホッ」としているんじゃないか。
 死んだ人のことを「浄土に帰られました」と表現することがある。もともと娑婆世界に居たんだから「帰る」という表現はおかしくないか?と思って調べたら、どうも典拠があるらしい。
慶ばしきかな人身を得て要法を聞き たちまちに他郷を捨てて本国に帰
ること (般舟讃、七祖篇 p.738)
  意訳:よろこばしいことだ、人間存在に生まれて肝要な(浄土の)教えを聞き、
すぐさまよその土地(である迷いの世界)を捨てて、(自分たちの)本国(すなわち
帰るべき故郷である浄土)に帰ることは。————善導

 他にも善導の著作にたくさんこのような表現が出てくるし、親鸞も唯信鈔文意で「法性のみやこにかえる」と言っている。

 人間は、「帰る」ために生きているのかもしれない。これから人に「人間の生きてる目的って何?」って聞かれたら、「帰るために生きてる」って答えようかな。本当の「ただいま」が言えた時、人間は真に癒えるのかもしれない。

超越論的冗談可能性

 超越論的冗談可能性という言葉が流行ったことがあるらしい。

超越論的冗談可能性。いかなる発話も最後に「なーんちゃって」を付加することでその発話の力を削ぐことができる。という可能性によってこそその発話の力を得ている、という説。

 発話の力を得ているってのはよくわからんけど、確かに全ての発話には冗談可能性が付きまとう。
 「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生」という「こじらせた」人間を描いた漫画で、お笑いをこじらせた男が気になっている女の子に告白するシーンがある。結果は玉砕。そのときその男は「これは全部キミを試すための試験だった、合格!」みたいなことを言う。この発話には、自己を全て自分で統御できるという全能性が隠れていると思う。
 「全て冗談だった」といえば、「遡及的に」自分の全ての行動の「意図」を制御できる(フリができる)。全ての言葉に冗談可能性が付きまとうので、それを把握していれば、たとえ「マジ」になって生きていたとしても、後付けジャンケンで全能のフリができる。
 全能の自己という幻想は冗談可能性に支えられているんじゃないかな


 これは2017年の2月に他のブログに書いた記事の引用。僕の「伝わらなさ」はここから来ていると思う。「嘘か真か」が宙ぶらりんの言葉しか吐くことができない。僕の言葉は後から「嘘ぴょん」でひっくり返すことができる、例外なく、全て。宙ぶらりんだ。そういうのが表に出てるので、人に信用されないんだと思う。自分でも自分の言葉が本当なのか嘘なのか分からない。

 人に自分の100%を伝えたい。どうやったらいいんだろう。僕には嘘しかない。

 浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし————親鸞

ぐうたら幸福論

 僕はめっちゃぐうたらだ。めんどくさがり屋の極みで、最近は無気力すぎて毎日2時間ぐらい昼寝をしている。なんにもしたくない。楽して生きたい。

 アリストテレスはニコマコス倫理学で「人間はまず何よりも幸福を求める」と言っている。僕もそう思う。僕の「幸福」に執着しすぎている姿を見て、友達に「幸福ってそんなに大事なものなの?」って聞かれたけれど、その友達も幸福を目指していないわけがなく、言うまでもなく幸福は大事だ。

 みんな幸福になるために努力をする。僕は努力をしたくない。
オー!ノーッおれの嫌いな言葉は一番が「努力」で二番目が「ガンバル」なんだぜーッ————ジョセフ・ジョースター

 楽して幸せになりたい。テーラワーダ仏教を勉強しているときに、本に「幸せになりたければいくらでもなればいいのに、なぜみんなそうしないんだろう」と書いてあった。「確かに」と思った。その本は瞑想の本で、瞑想をすれば金もかけずに禅定でどんどん幸福が味わえると書いてあった。何も無くても「心」があれば、その「心」を自分からどんどん喜ばせればいい。こりゃいいと思った。
 で、瞑想を2年ぐらいやってるけれど、瞑想はいい。無料で幸せになる。穏やかになる。お金も地位も名誉も異性もいらない。目を瞑って呼吸に意識を集中させるだけで、幸福になる。

 でも瞑想も億劫なときがある。最近は、寝転んで、阿弥陀仏を心で念じることが多くなった。まだ信心は得てないけれど、自分を無条件で愛してくれている存在のことを考えるだけで、胸やお腹のあたりが暖かくなって、幸福な気分になる。愛を感じる。これもお金も地位も名誉も異性もいらない。こういうのを「法悦」というらしい。

 頑張らずに、慎ましく、幸福になりたい。無料で最高級の幸福感をゲットする方法があった。やったぜ。

地獄

 僕は基本的に死ねば「無」になると思っていたけれど、「もしも」地獄があったらどうしようという思いがあったので、悪いことはできなかった。友達が万引きをしていてもそれに加わらなかったし、ネットで犯罪まがいのことを誘われても断ってきた。
 みんな「もしも地獄があったらどうしよう」と思わないんだろうか。悪い事をした人は地獄に堕ちて、欲まみれの人は餓鬼道に落ちて、恥知らずの人は畜生道に堕ちる。もしもそうだったらどうしよう、と思わないんだろうか?餓鬼道はつらい。
無財餓鬼 - 食べることが全くできないもの[4]。飲食しようとするも炎などになり、常に貪欲に飢えている。唯一、施餓鬼供養されたものだけは食することができるといわれる。
少財餓鬼 - 膿、血などを食べるもの[4]。ごく僅かな飲食だけができる餓鬼。人間の糞尿や嘔吐物、屍など、不浄なものを飲食することができるといわれる。
多財餓鬼 - 人の残した物や、人から施されたものを食べることができるもの[4]。天のような享楽を受ける者もこれに含む[4]。多くの飲食ができる餓鬼。天部にも行くことが出来るものは富裕餓鬼ともいう。ただし、どんなに贅沢できても満ち足りることはないといわれる。

 食欲はバチクソあるのに、モノを食べられない。そういう場所が「もしも」あったら恐ろしくないか。

 レイプしたりだとか、人を風俗に落としたりだとか、そういう地獄に堕ちそうな人を何人も知っているけれど、地獄が怖くないんだろうか。臨死体験で地獄を見たという報告もある。僕は性犯罪をするような人間は地獄に堕ちてほしい。因果応報。

 「もしも」地獄があったら怖くないか?大丈夫ですか?

退屈

 心理学に「心理的適応」という言葉がある。欲しかったものを手に入れても心がそのものに「適応」してしまって、まあ、要は「飽きる」ということだ。何を手に入れても飽きるよ。人間の脳はそういう風に進化している。家を買っても車を買っても異性を手に入れても、飽きるよ。有っても苦しみ、無くても苦しみ、それを仏教用語で有無同然という。

 「退屈」が、人生の根本にあると言ったのは僕の大好きな哲学者であるパスカルとキルケゴールである。

気ばらし──人間のさまざまの激動、かれらが宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生じる闘争や欲情、大胆な、ときには邪悪なくわだて、その他をたまたま考えてみたとき、私は人間のあらゆる不幸は、一室にじっとしていられないというこの一事からおこると、よくいったものだ。生活に困らないだけの財産を持っている人は、自宅で愉快に暮らすことができれば、べつに外に出て、船に乗ったり要塞の包囲線に加わったりしないであろう。町で動かずにいるのが堪えがたいことでなかったならば、だれも軍職をあんなに高く買わないであろう。また自宅で愉快にくらしうれば、だれも談話や賭事の気ばらしを求めはしないであろう。—————パスカル

人はなんらかの障害と戦いつつ、安静を求める。ところが、障害に打ち勝てば、安静は倦怠を生み出すので、堪えがたいものになり、そこから出て、激動を求めずにはいられない。なぜなら、人は現に感じているみじめさか、行く手をおびやかしているみじめさを思うからである。そして、たとえあらゆる方面において安全を十分保証されたにしても、倦怠が自分勝手に本来それが根ざしている心の底から発生し、その毒素をもって精神を充たさずにはおかないであろう。このように、人間ははなはだ不幸なので、なんら倦怠の原因がないときにすら、その気質の本来の状態によって倦怠におちいる。またかれはすこぶる空虚なので、倦怠におちいるべき無数の重大な原因に満ちていながら、玉突きや球打ちのようないたってつまらないことによって十分気をまぎらすのだ。————パスカル


 人生の根底、ここでいう「根底」とは本当の根底のこと。人生の底の底。人生の底の底には「虚しい」「退屈」という気分がある。それが底の底。どん底。人間は一週間も家に引きこもって何もしなければ「虚しい」「退屈」という思いが湧いてくるだろう。それが人間の「本質」だから。
 どん底に「退屈」「虚しい」がある。それを誤魔化すために、ギャンブルをしたり、バイクに乗ったり、仕事をしたり、音楽をしたり、恋愛をしたり、ホストに走ったりする。「退屈」は「不幸」よりも恐ろしい。だから人間は自分から不幸になったりもする。それらは全て対症療法に過ぎず、根本的な「退屈」を癒しえるものではない。

 人間のどん底には「虚しい」「退屈」がある。それを認識すること。それを認識しない人生こそ真に虚しいだろう。どん底にある「退屈」を癒す方法は、まあ坐禅ぐらいだろう。人間は「退屈」から逃れられない。退屈が全ての不幸の元だ。だから浄土に行こうね
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