人生入門

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生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

短歌も書いてます
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アフォリズム体解
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信心入門
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詩入門
https://utagoe.hateblo.jp

小説 結構頻繁に更新します
https://novel18.syosetu.com/n4490gu/


哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

弱い

 私がいきてゆけなくなったのは、食べ物がないからではない。着物がないからでもない。住宅がないからではない。私の心の底まで知り尽くしてくれるものがないではないか。人生の底に、うらぎらない愛がないものだろうか。

という手記を残して自殺した、北ヨーロッパの老人の話を、ある先生から聞かせて頂いたことがあります。


 仏教ては「無我」と言って我という実体を否定するけれど、本当に自分って存在しないんだろうか。僕は存在しないものを追い求めてるんだろうか
 誰にも理解されなさすぎて自殺したくなることがある。
 どれだけブログ記事を書いても、どれだけ話をしても、デートしても、同棲しても、セックスしても、誰にも理解されない。「君は本当に空っぽで弱い人間だね、どうしようもなく卑怯だね、救いがたい人間だね」って言われたい。昔からずっと、自分の中の弱さを隠して強がって生きてきて(みんなそうだと思うけど)でもたぶん、僕はみんなよりずっと弱い。一人で立つことができない。僕の決定的な「弱さ」を全開にすると、人は離れていっちゃうと思う。10代の頃はやってたけど、寂しいときに、相手が見ていないのに、何時間もずっと「寂しい」ってチャットを送り続けてた。スカイプの通話で、1時間ぐらい「死にたい」ってず〜っと言ってた。でも、それよりも弱い。立てない。僕は一人で靴下が履けない。

 
表面じゃ足りないもっと肉の奥の奥の奥の命の命————のちゃぴ

 透明な肉体になりたい。そこに残った全部の「嘘」を抱きしめてほしい。

哲学とは何か

哲学とは何か
昔読んだ本に定義していたものを思い出せるだけ書く。

なんか哲学の入門書
「先人の作った思想体系を再構築して新しい哲学を作っていく終わりのない営み」
竹田セイジ
「世界をどのようにしたら言葉で上手く説明できるかどうかを競い合う言語ゲーム」
ニーチェ
「哲学者自身の恣意的な道徳が種となってそれが花という体系となったもの」
ソクラテス
「知を愛する事」
スピノザ
「絶対的な善を見つけるための賭け」
エピクテトス
「幸福に生きる技法」
キルケゴール
「自分がそのために生きそのために死ねるような真理を見つけること」

 書いてて思ったけど、哲学者一人一人で哲学の定義が違いそうだな。
ベルクソンか誰かが言ってたけど「なぜ人は生きているか」という問いに答えられない哲学は哲学の名に値しない。僕もそう思う。僕は「哲学とは何か」は分からない。けれど「哲学とはなんでないか」は分かる。それは「僕の生きる意味を探求する」ことでは「ない」こと。僕自身の生きる「究極的な意味」とは関係のないもの。これらは僕にとって哲学ではない。

普通

“本寂「信の得られたすがたを一言もうしてみよ」
庄松「なんともない」
本寂「それで後生の覚悟はよいか」
庄松「それは阿弥陀さまに聞いたら早ようわかる。われの仕事じゃなし。われに聞いたとてわかるものか」
本寂「よういうた。弥陀をたのむというもそれより外ない」”


 女子高生のブログに、自分は「唯一性」を信じている。自分の人生に「唯一性」がなく、他の人と同じような人生だったら生きている意味がない。だから信仰はしない、と書いてあった。違和感があった。

 ビギナーズマインドで有名な鈴木師は、どんなことをしているときよりも、「坐禅」をしているときが一番「個性」が現れると言っていた。自分の思想をどれだけ語っても、どれだけ面白い生き方をしても、坐禅の「姿勢」を後ろから見た時に、一番その人が分かるという。宗教は「個」を潰す営みではない。
 先人に形式を学んで、その内容を変えていく。そこにしか「創造」はないんじゃなかろうか。

 妙好人と呼ばれる人達がいる。浄土真宗の篤信者のことだけれど、そういう人達は大体「なんともない」とか「一生無駄骨を折った」とか「凡夫のウブのままで死んでいく」とか言う。最初に引用したように、信心を得ても「なんともない」。何も変わらない。死後を阿弥陀仏に丸投げして、安心した生活ができるようになる、それだけは違う。寂しいときは口から南無阿弥陀仏と仏様が出てくれる、そこだけは違う。死の不安と孤独がなくなる。

 なんか、宗教を全体主義的な、個を圧殺するものだと思っている人が多いように思う。僕がシンパシーを感じている浄土真宗は、本当に何もない。別に念仏したくなかったらしなくていいし、阿弥陀仏に感謝したくなかったらしなくていい。人を殺してもいい。音楽を作ってもいい。自殺してもいい。豚肉食べてもいい。隣人を愛さなくてもいい。金も払わなくていい。何かに所属しなくてもいい。他人に布教しなくてもいい。何にもない。
 後生の一大事が解決するだけ。ありがたいなあ。
宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。————澤木興道

知性 不可解

 
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。—————藤村操

 これは華厳の滝で自殺した東大生の遺書だ。「生きてる意味は考えても考えても分からん」といって自殺した。僕は「不条理」という言葉をよく用いていたが、「不可解」という言葉も結構いい。生の意味は「不可解」だ。僕は、これは「詰まらん」と思う。本当につまらない。ネットで知り合った人に「人間ってなんで生きてると思う?」と聞いたら今まで100%の人が「分からない」「生まれてきたから」「死ぬのが怖いから」と、実に普通でつまらないことを答えていた。本当に面白くない。おじさんに「なんで生きてるのか分からん」と相談したら、「俺も分からん、そういうことは考えるな」と言われた。詰まらん。

 同じく人生は不可解だと言っている清沢満之の名文も引用しよう
私が如來を信ずるのは、私の智慧の窮極であるのである。人生の事に眞面目でなかりし間は、措いて云はず、少しく眞面目になり來りてからは、どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、其研究が遂に人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。信念を得るには、強ち此の如き研究を要するわけでないからして、私が此の如き順序を經たのは、偶然のことではないかと云ふ樣な疑もありさうであるが、私の信念は、さうではなく、此順序を經るのが必要であつたのであります。私の信念には、私が一切のことに就いて私の自力の無功なることを信ずると云ふ點があります。此自力の無功なることを信ずるには、私の智慧や思案の有り丈を盡して、其頭の擧げやうのない樣になると云ふことが必要である。此が甚だ骨の折れた仕事でありました。其窮極の達せらるゝ前にも、隨分宗教的信念は、こんなものであると云ふ樣な決着は時々出來ましたが、其が後から後から打ち壞はされて了うたことが幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うて居る間は、此難を免れませぬ。何が善だやら惡だやら、何が眞理だやら非眞理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何も分らないとなつた處で、一切の事を擧げて、悉く之を如來に信頼する、と云ふことになつたのが、私の信念の大要點であります。

 ソクラテスは無知の知(俺は何も分からん主義)を標榜したが、ギリシャの神の敬虔な信者だった。哲学の始まりは「俺は何も分からん」で始まって、「俺は何も分からん」で終わると思うけれど、その哲学の始祖であるソクラテスは神々を信奉していた。「俺は何も分からん」と「俺は何も分からん」という無知の土台には「神」が存在しているように思う。

 「不可解」という概念は「可解」という概念を前提にしている。だからこの「可解」をどこに置くのかが問題なのだと思う。人間の能力で「可解」を求めようとするのは失敗するに決まっている。人間は考える葦であるといったパスカルは、こういう言葉を残している。
 理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。

 知性では「不可解」にたどり着かざるを得ないなら、他の方法はあるか?禅は、知性を殺す営みだ。知性を殺せば「真如」が現れてくるというパラドックス。知性・理性で何かを探しても、知性・理性が殺したものを、知性・理性で探そうとしているのだから、見つかるはずがない。知識の木の実を食べて、エデンの園から追放されたあとに、知識でエデンの園を探しているようなものだ。本当は知識の木の実を吐かなければならない。

 「生きてる意味なんかないよ」というのは「詰まらん」。本当に詰まらない。けれども「不可解」というのは動かしがたい。だから、「不可解」以前に行くこと。人間の知性以前に行くこと。人間の思慮分別を超えた領域に行くこと。人間の思慮分別を超えた領域というのは「あり得ない」もののことで、仏教では「不思議」という。知性以前にはエデンの園がある。

 仏教には聖道門と浄土門がある。聖道門は自らの仏性(永遠性?)を全開にして、知性以前に行くことで、浄土門は知性以前が向こうからやってくる道である。
南無無限。南無御いのち。南無不可思議光。

 

浄土真宗理解

 浄土真宗というのは法然上人の一枚起請文に尽きていると思うけれど、「信心とは何か?」を掘っていくと、なかなか決着がつかない。半年ちょっと勉強した成果をまとめる。

 昔々、あるところに王様がいました。その王様が、世自在王仏という仏の説法に感銘を受けて、出家をし、法蔵菩薩と名乗りました。法蔵菩薩は自分が悟りを開いて幸福になるだけではなく、一切衆生、生きとし生けるものを幸福にしたいと考え、48個の願をたてて、この願が成就しないならば、自分は仏にならないと誓い、永遠のように長い修行をしました。その結果、法蔵菩薩は無事に成仏し、阿弥陀仏となられました。遠い昔に阿弥陀仏になった阿弥陀仏は、17願により「南無阿弥陀仏」の名号になり、18願では、その名号を信じるものを救うと言って、私達を招き詰めにしている。法蔵菩薩が修行で詰んだ功徳は全て「南無阿弥陀仏」に詰まっています。

 もっと根本を云えば、無限である久遠の阿弥陀仏が相対有限の世界に降りてきたのが法蔵菩薩で、そうすることで、無限者である阿弥陀仏が衆生を救えるようになった。阿弥陀とはサンスクリット語で無限の光、無限の命という意味であり、無限の光、命が人間界に現れるためにお経の形式をとったと考えていい。「法蔵」というのは真理の蔵という意味である。

 「南無阿弥陀仏」という念仏は、「お前を必ず救う、心配するな」という阿弥陀仏の勅命であり、それに「何も加えない」のが「信心」である。加える「何か」というのは「本当だろうか?」「嘘っぽい」「ただの声じゃないか」「お経をこう解釈するとおかしいことになるぞ」「私は救われがたい罪人だ」「おとぎ話じゃないか」という疑蓋であり、この蓋があるせいで、阿弥陀仏の功徳が詰まった名号が私達の胸に届かない。
 「お前を必ず救う」という「南無阿弥陀仏」に「何も加えない」のが「信心」。だから聞即信と言う。聞いたそのままが信心。

 蓋がなくなると、世界に満ち満ちている仏心が、凡夫の心と一体になり、必ず浄土へ往生する身になる。そして死ぬと、永遠の命の世界に生まれ、またこの世界に菩薩として帰ってきて、衆生済度をする。

ごちゃごちゃうるせえ

 久々にツイッターをやった。1日でアカウント削除した。
フェミニズムとか、ヘイトスピーチとか、芸術論とか、哲学談義とか、時事に対する論評とか、反出生主義とか、駄ポエムとかいろんな人間の小難しくてカッコイイtweetが目に入った。

 ごちゃごちゃうるせえ!人間は死ぬ。

 ごちゃごちゃうるせえ!人間は死ぬ。

 結局死ぬのにごちゃごちゃ小難しいこと言うのは非生産的だ。(生産的なものなど何もない)

 ごちゃごちゃうるせえ!お前は明日死ぬ。

 難しいこと考えるの、疲れた。難しい話するのも難しい本読むのも疲れた。

よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。————歎異抄

 ナムアミダブツ ナムアミダブツ
これが結論であり、一切であります。————木村無相

表現欲求

 僕が「表現」に拘っているのは、それがもちろん「死」と密接に関係するものということもあるけれど、僕に猛烈な表現欲求があって、けれども自分にそれを許すことができない煩悶があるからである。
 他者はどうか知らない。僕にとって表現は全く崇高なものでも高尚なものでもなく自己の発露と言ったものでもなく必然性というものでもなく他者への手向けと言ったものでもなくただ「共感されたい」「チヤホヤされたい」「あわよくばお金が欲しい」という下劣な欲求が形になったものに他ならない。僕はこの自分の浅ましく下等な欲求から目をそらして自分の「作品」を世に出すことができない。ツイッターで承認欲求丸出しでツイートすることすら僕の潔癖な意識にとっては許されない。あさましい!あさましい!あさましい!!!
 むろん僕には才能もなく努力する根性もないのは承知だけれど、小説なら小説、音楽なら音楽、形式はなんでもいい、僕は一度ハマったらひたむきになれるという病気、個性を持っているので、上質な作品は作れなくとも、一度「ひたむき」になれるような状況に自分を置きたい。けれどもそうするためには、僕はこの浅ましい自分に対して敏感すぎるし、浅ましい自分を看過して表現をすることは、「許されない」。
 表現欲求がある。けれど、それは僕に許されていない。一度、徹底的に勉強して、人の目に触れえるような物を作りたいという欲求がある。
 もう一つあった。「結局死ぬから何をしても無駄じゃないか」という意識も、表現をすることを妨害している。僕は下劣な欲求を阿弥陀仏に許される必要があるし、永遠を掴む必要がある。
 人生入門する必要がある。

念佛

この世がいやだと思わない人が、信仰の道に入れますか?この世はいい所だなぁ、おもしろいなあ、と思っている人に、信仰を求める気持ちはありませんよ。人間の世界はあさましいなぁ、自分の心はもっとあさましい、という愛想づかし、すなわち現実否定があってこそ、念仏門に入れるんですね。————教行信証を読む

僕は世界を呪う権利があるだろうか

 一切皆苦

 命が命を食べて生きている。命は命を犠牲にしないと生きられない。これ以上の不条理があるだろうか。僕の体は動物の屍骸で出来ている。

 僕は加害者である。

 僕は10代の頃に10回ほど手術をした。再発するたびに、カミュという思想家から知った「不条理」という言葉がガンガン頭に響いた。世界を呪った。

 僕は世界を呪う権利があるだろうか

 僕は加害者である

 子供の頃にイジメられたことがある。僕は世界を呪う権利があるだろうか?

 ツイッターで「フェミニストはヴィーガンになる義務がある」という主張がバカにされていた。女性の身に降りかかる不条理には敏感で、他の命に対する不条理に鈍感なのは、差別だろう。僕はその主張は正しいと思った。

 生き物は全員加害者である

 釈尊は、一説によると、鳥がミミズを食べるところを目撃して、それに深い悲哀を感じて出家したという。一切皆苦で、世界は不条理で、みんな被害者で、みんな加害者である。

 不条理に他の命を殺している僕が世界を呪う権利があるとは思えない 資格がない 世界の不条理性に加担している僕が自分の身に降りかかる不幸だけ呪うのは卑怯だ

 広汎性発達障害、難治性肺気胸、イジメ、肉親の死、僕はこれらに異議を申し立てることも呪うこともしたくない なぜなら他の生き物を殺して生きているから

 他の生き物に呪われて生きている

 

僕の嫌いな人

直接的、無意識的、本能的、素朴、原始的、習慣、これらは僕にとって唾棄すべきものだった。直接的、無媒介的に生きている人間は、阿呆だ。踊る阿呆に見る阿呆、という歌があるが、僕は踊る阿呆になるぐらいだったら、見る阿呆になりたかった。この身体の中の、小さな小さな、幾何学的な点。この点が覚醒してる人、この点が眠り込んでいる人、世の中には2種類の人間がいる。僕の点は狡猾で、桃色がかっていて、肉眼では見えないほど小さかったが、無量の光を放っていて、この光が潰えることはなさそうだった。僕が思うに、この社会では、意識が覚め切っている人間は、狂人扱いされ、意識が眠り込んでいる人間は、常識人扱いされる。背筋に一本の棒を入れる。無意識のコアを体内の中心に据える。そうすることで、人間は社会で生きていくことができる。わかる?無意識のコア、正当性のコア、盲目性のコアを、意識の光で食い破ってしまった僕たちは、だだっ広い不条理を背負って生きていくか、自殺するか、無理やりにでもコアを注入するしかない。—————せーので絶望しよっ

僕の嫌いな人は「自己反省」のない人で、自分の価値観、言い換えれば信仰を無反省に受け入れてそれでよしとしている人。自分の「精神」を問題としない人。自分の「欲望」を問題にしない人。自分の「倫理」を問題にしない人。自己を問題にしない人。

仏教では、「畜生」とは「慚愧」のない生き物のことだという。「慚愧」というのは恥じること。アダムとイブは、善悪の木の実を食べた後、「恥じた」。恥の多い生涯を送ってきたと言って自殺した太宰治は自己反省の塊で、人間の中の人間だと思う。
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