普通
“本寂「信の得られたすがたを一言もうしてみよ」
庄松「なんともない」
本寂「それで後生の覚悟はよいか」
庄松「それは阿弥陀さまに聞いたら早ようわかる。われの仕事じゃなし。われに聞いたとてわかるものか」
本寂「よういうた。弥陀をたのむというもそれより外ない」”
女子高生のブログに、自分は「唯一性」を信じている。自分の人生に「唯一性」がなく、他の人と同じような人生だったら生きている意味がない。だから信仰はしない、と書いてあった。違和感があった。
ビギナーズマインドで有名な鈴木師は、どんなことをしているときよりも、「坐禅」をしているときが一番「個性」が現れると言っていた。自分の思想をどれだけ語っても、どれだけ面白い生き方をしても、坐禅の「姿勢」を後ろから見た時に、一番その人が分かるという。宗教は「個」を潰す営みではない。
先人に形式を学んで、その内容を変えていく。そこにしか「創造」はないんじゃなかろうか。
妙好人と呼ばれる人達がいる。浄土真宗の篤信者のことだけれど、そういう人達は大体「なんともない」とか「一生無駄骨を折った」とか「凡夫のウブのままで死んでいく」とか言う。最初に引用したように、信心を得ても「なんともない」。何も変わらない。死後を阿弥陀仏に丸投げして、安心した生活ができるようになる、それだけは違う。寂しいときは口から南無阿弥陀仏と仏様が出てくれる、そこだけは違う。死の不安と孤独がなくなる。
なんか、宗教を全体主義的な、個を圧殺するものだと思っている人が多いように思う。僕がシンパシーを感じている浄土真宗は、本当に何もない。別に念仏したくなかったらしなくていいし、阿弥陀仏に感謝したくなかったらしなくていい。人を殺してもいい。音楽を作ってもいい。自殺してもいい。豚肉食べてもいい。隣人を愛さなくてもいい。金も払わなくていい。何かに所属しなくてもいい。他人に布教しなくてもいい。何にもない。
後生の一大事が解決するだけ。ありがたいなあ。
宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。————澤木興道
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