知性 不可解
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。—————藤村操
これは華厳の滝で自殺した東大生の遺書だ。「生きてる意味は考えても考えても分からん」といって自殺した。僕は「不条理」という言葉をよく用いていたが、「不可解」という言葉も結構いい。生の意味は「不可解」だ。僕は、これは「詰まらん」と思う。本当につまらない。ネットで知り合った人に「人間ってなんで生きてると思う?」と聞いたら今まで100%の人が「分からない」「生まれてきたから」「死ぬのが怖いから」と、実に普通でつまらないことを答えていた。本当に面白くない。おじさんに「なんで生きてるのか分からん」と相談したら、「俺も分からん、そういうことは考えるな」と言われた。詰まらん。
同じく人生は不可解だと言っている清沢満之の名文も引用しよう
私が如來を信ずるのは、私の智慧の窮極であるのである。人生の事に眞面目でなかりし間は、措いて云はず、少しく眞面目になり來りてからは、どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、其研究が遂に人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。信念を得るには、強ち此の如き研究を要するわけでないからして、私が此の如き順序を經たのは、偶然のことではないかと云ふ樣な疑もありさうであるが、私の信念は、さうではなく、此順序を經るのが必要であつたのであります。私の信念には、私が一切のことに就いて私の自力の無功なることを信ずると云ふ點があります。此自力の無功なることを信ずるには、私の智慧や思案の有り丈を盡して、其頭の擧げやうのない樣になると云ふことが必要である。此が甚だ骨の折れた仕事でありました。其窮極の達せらるゝ前にも、隨分宗教的信念は、こんなものであると云ふ樣な決着は時々出來ましたが、其が後から後から打ち壞はされて了うたことが幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うて居る間は、此難を免れませぬ。何が善だやら惡だやら、何が眞理だやら非眞理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何も分らないとなつた處で、一切の事を擧げて、悉く之を如來に信頼する、と云ふことになつたのが、私の信念の大要點であります。
ソクラテスは無知の知(俺は何も分からん主義)を標榜したが、ギリシャの神の敬虔な信者だった。哲学の始まりは「俺は何も分からん」で始まって、「俺は何も分からん」で終わると思うけれど、その哲学の始祖であるソクラテスは神々を信奉していた。「俺は何も分からん」と「俺は何も分からん」という無知の土台には「神」が存在しているように思う。
「不可解」という概念は「可解」という概念を前提にしている。だからこの「可解」をどこに置くのかが問題なのだと思う。人間の能力で「可解」を求めようとするのは失敗するに決まっている。人間は考える葦であるといったパスカルは、こういう言葉を残している。
理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。
知性では「不可解」にたどり着かざるを得ないなら、他の方法はあるか?禅は、知性を殺す営みだ。知性を殺せば「真如」が現れてくるというパラドックス。知性・理性で何かを探しても、知性・理性が殺したものを、知性・理性で探そうとしているのだから、見つかるはずがない。知識の木の実を食べて、エデンの園から追放されたあとに、知識でエデンの園を探しているようなものだ。本当は知識の木の実を吐かなければならない。
「生きてる意味なんかないよ」というのは「詰まらん」。本当に詰まらない。けれども「不可解」というのは動かしがたい。だから、「不可解」以前に行くこと。人間の知性以前に行くこと。人間の思慮分別を超えた領域に行くこと。人間の思慮分別を超えた領域というのは「あり得ない」もののことで、仏教では「不思議」という。知性以前にはエデンの園がある。
仏教には聖道門と浄土門がある。聖道門は自らの仏性(永遠性?)を全開にして、知性以前に行くことで、浄土門は知性以前が向こうからやってくる道である。
南無無限。南無御いのち。南無不可思議光。
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