浄土真宗理解
浄土真宗というのは法然上人の一枚起請文に尽きていると思うけれど、「信心とは何か?」を掘っていくと、なかなか決着がつかない。半年ちょっと勉強した成果をまとめる。
昔々、あるところに王様がいました。その王様が、世自在王仏という仏の説法に感銘を受けて、出家をし、法蔵菩薩と名乗りました。法蔵菩薩は自分が悟りを開いて幸福になるだけではなく、一切衆生、生きとし生けるものを幸福にしたいと考え、48個の願をたてて、この願が成就しないならば、自分は仏にならないと誓い、永遠のように長い修行をしました。その結果、法蔵菩薩は無事に成仏し、阿弥陀仏となられました。遠い昔に阿弥陀仏になった阿弥陀仏は、17願により「南無阿弥陀仏」の名号になり、18願では、その名号を信じるものを救うと言って、私達を招き詰めにしている。法蔵菩薩が修行で詰んだ功徳は全て「南無阿弥陀仏」に詰まっています。
もっと根本を云えば、無限である久遠の阿弥陀仏が相対有限の世界に降りてきたのが法蔵菩薩で、そうすることで、無限者である阿弥陀仏が衆生を救えるようになった。阿弥陀とはサンスクリット語で無限の光、無限の命という意味であり、無限の光、命が人間界に現れるためにお経の形式をとったと考えていい。「法蔵」というのは真理の蔵という意味である。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、「お前を必ず救う、心配するな」という阿弥陀仏の勅命であり、それに「何も加えない」のが「信心」である。加える「何か」というのは「本当だろうか?」「嘘っぽい」「ただの声じゃないか」「お経をこう解釈するとおかしいことになるぞ」「私は救われがたい罪人だ」「おとぎ話じゃないか」という疑蓋であり、この蓋があるせいで、阿弥陀仏の功徳が詰まった名号が私達の胸に届かない。
「お前を必ず救う」という「南無阿弥陀仏」に「何も加えない」のが「信心」。だから聞即信と言う。聞いたそのままが信心。
蓋がなくなると、世界に満ち満ちている仏心が、凡夫の心と一体になり、必ず浄土へ往生する身になる。そして死ぬと、永遠の命の世界に生まれ、またこの世界に菩薩として帰ってきて、衆生済度をする。
昔々、あるところに王様がいました。その王様が、世自在王仏という仏の説法に感銘を受けて、出家をし、法蔵菩薩と名乗りました。法蔵菩薩は自分が悟りを開いて幸福になるだけではなく、一切衆生、生きとし生けるものを幸福にしたいと考え、48個の願をたてて、この願が成就しないならば、自分は仏にならないと誓い、永遠のように長い修行をしました。その結果、法蔵菩薩は無事に成仏し、阿弥陀仏となられました。遠い昔に阿弥陀仏になった阿弥陀仏は、17願により「南無阿弥陀仏」の名号になり、18願では、その名号を信じるものを救うと言って、私達を招き詰めにしている。法蔵菩薩が修行で詰んだ功徳は全て「南無阿弥陀仏」に詰まっています。
もっと根本を云えば、無限である久遠の阿弥陀仏が相対有限の世界に降りてきたのが法蔵菩薩で、そうすることで、無限者である阿弥陀仏が衆生を救えるようになった。阿弥陀とはサンスクリット語で無限の光、無限の命という意味であり、無限の光、命が人間界に現れるためにお経の形式をとったと考えていい。「法蔵」というのは真理の蔵という意味である。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、「お前を必ず救う、心配するな」という阿弥陀仏の勅命であり、それに「何も加えない」のが「信心」である。加える「何か」というのは「本当だろうか?」「嘘っぽい」「ただの声じゃないか」「お経をこう解釈するとおかしいことになるぞ」「私は救われがたい罪人だ」「おとぎ話じゃないか」という疑蓋であり、この蓋があるせいで、阿弥陀仏の功徳が詰まった名号が私達の胸に届かない。
「お前を必ず救う」という「南無阿弥陀仏」に「何も加えない」のが「信心」。だから聞即信と言う。聞いたそのままが信心。
蓋がなくなると、世界に満ち満ちている仏心が、凡夫の心と一体になり、必ず浄土へ往生する身になる。そして死ぬと、永遠の命の世界に生まれ、またこの世界に菩薩として帰ってきて、衆生済度をする。
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