僕の嫌いな人
直接的、無意識的、本能的、素朴、原始的、習慣、これらは僕にとって唾棄すべきものだった。直接的、無媒介的に生きている人間は、阿呆だ。踊る阿呆に見る阿呆、という歌があるが、僕は踊る阿呆になるぐらいだったら、見る阿呆になりたかった。この身体の中の、小さな小さな、幾何学的な点。この点が覚醒してる人、この点が眠り込んでいる人、世の中には2種類の人間がいる。僕の点は狡猾で、桃色がかっていて、肉眼では見えないほど小さかったが、無量の光を放っていて、この光が潰えることはなさそうだった。僕が思うに、この社会では、意識が覚め切っている人間は、狂人扱いされ、意識が眠り込んでいる人間は、常識人扱いされる。背筋に一本の棒を入れる。無意識のコアを体内の中心に据える。そうすることで、人間は社会で生きていくことができる。わかる?無意識のコア、正当性のコア、盲目性のコアを、意識の光で食い破ってしまった僕たちは、だだっ広い不条理を背負って生きていくか、自殺するか、無理やりにでもコアを注入するしかない。—————せーので絶望しよっ
僕の嫌いな人は「自己反省」のない人で、自分の価値観、言い換えれば信仰を無反省に受け入れてそれでよしとしている人。自分の「精神」を問題としない人。自分の「欲望」を問題にしない人。自分の「倫理」を問題にしない人。自己を問題にしない人。
仏教では、「畜生」とは「慚愧」のない生き物のことだという。「慚愧」というのは恥じること。アダムとイブは、善悪の木の実を食べた後、「恥じた」。恥の多い生涯を送ってきたと言って自殺した太宰治は自己反省の塊で、人間の中の人間だと思う。
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