超越論的冗談可能性
超越論的冗談可能性という言葉が流行ったことがあるらしい。
超越論的冗談可能性。いかなる発話も最後に「なーんちゃって」を付加することでその発話の力を削ぐことができる。という可能性によってこそその発話の力を得ている、という説。
発話の力を得ているってのはよくわからんけど、確かに全ての発話には冗談可能性が付きまとう。
「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生」という「こじらせた」人間を描いた漫画で、お笑いをこじらせた男が気になっている女の子に告白するシーンがある。結果は玉砕。そのときその男は「これは全部キミを試すための試験だった、合格!」みたいなことを言う。この発話には、自己を全て自分で統御できるという全能性が隠れていると思う。
「全て冗談だった」といえば、「遡及的に」自分の全ての行動の「意図」を制御できる(フリができる)。全ての言葉に冗談可能性が付きまとうので、それを把握していれば、たとえ「マジ」になって生きていたとしても、後付けジャンケンで全能のフリができる。
全能の自己という幻想は冗談可能性に支えられているんじゃないかな
これは2017年の2月に他のブログに書いた記事の引用。僕の「伝わらなさ」はここから来ていると思う。「嘘か真か」が宙ぶらりんの言葉しか吐くことができない。僕の言葉は後から「嘘ぴょん」でひっくり返すことができる、例外なく、全て。宙ぶらりんだ。そういうのが表に出てるので、人に信用されないんだと思う。自分でも自分の言葉が本当なのか嘘なのか分からない。
人に自分の100%を伝えたい。どうやったらいいんだろう。僕には嘘しかない。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし————親鸞
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