念仏すれば救われるか? | 人生入門

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再来年中に読むもの
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念仏すれば救われるか?

 一遍上人の語録を読んでいたら、信仰の眼が開けた。浄土真宗を勉強していたのに、一遍上人に気づかされてしまった。
 一遍上人の特色は「信不信を問わず、念佛を称えればそこで救われる」というもので、語録を読んでいると「あ、別に信じなくてもいいんだ、なんだ、信じなくても俺はこのままで救われてるじゃないか」と気づいた。「ナムアミダブツ」が一切だった。信じるも疑うもどちらもいらない、唯の唯の助け、と浄土真宗でも言っている人がいたが、それは「そこまで慈悲深い阿弥陀仏なら信じましょう」というとこまで持っていくための方便だと思う。けれど一遍上人は本気で「信不信を問わず阿弥陀仏は助ける」と言っていて、「なんだ、これでよかったのか」と不思議にも「疑い」がなくなった。ナムアミダブツだけでいいんだ、と。

 南無阿弥陀仏への疑いがなくなった。一時的なものなのかどうかは知らない

 一遍上人の弟子が開いた時宗は、一時期、浄土真宗よりも流行っていたらしい。僕は一遍上人の気持ちが分かるような気がする。最近読んだ親鸞の世界という本で、鈴木大拙がこのように述べていた。
鈴木それだからその、そのときに、自分が正覚を成じたときは阿弥陀仏が正覚を成じておるのみならず、山川草木悉く、成仏すると。で、そのときに、親鸞聖人の、わし一人のために阿弥陀はいろいろ苦労せられたと、こういうが、その実、親鸞聖人一人じゃないんだ、みんながそのとき悉皆成仏しているんだね。
金子さあ、どうですかね。
鈴木そういうところをじっくり磨いていかんとね(笑い)

 浄土真宗の金子大栄がこれに同意するはずがないが、禅の「自分が成仏すると同時に世界も同時に成仏する」という世界に生きている鈴木大拙は、「自分が阿弥陀仏に救われている」というのと「世界が救われている」のが同時に思えたのだと思う。そして、それは一遍上人の感覚と全く同じだったと僕は信じる。
よろず生きとしいけるもの 山河草木 ふく風たつ浪の音までも 念仏ならずといふことなし————一遍

 一遍にとっては世界は救われていた。そして、僕もその気持ちは今なら少しわかる。「信じたものだけが救われる」という世界は少し窮屈だ。僕は浄土真宗の門徒でも時宗の門徒でもないから自由になんでも書ける。僕は、信じたものだけが救われるような阿弥陀仏ではないような気がする。それは少し水臭い。僕の信じている阿弥陀仏は信不信を問わない阿弥陀仏だ。「信不信を問わない」阿弥陀仏を「信じている」

 また勉強していくうちに意見は変わるかもしれない。親鸞聖人が正しいと分かるかもしれない。一遍上人が正しいと分かるのかもしれない。けれど「南無阿弥陀仏」で充分だ、というのは変わらないと思う。どちらにしても自分は南無阿弥陀仏に対する「疑い」はなくしたい、現世がつらいから。(ということは親鸞聖人、浄土真宗に収斂するんだろうな)。
 阿弥陀仏が信じるものを救うのか、それとも信じないものも救うのかどうか知らない。でもこの文章を読んだ人は「ナムアミダブツ」と口で言ってみてほしい。信じなくてもいい。それで救われるかもしれない。信じなくていい。浄土で、会いましょう。

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