二十三歳のエチュード
二十歳のエチュードという本がある。僕のブログを読んでいる人なら聞き飽きたかもしれない。「誠実さ」を求めて自殺した青年の遺書。僕より精神的な潔癖症の人を初めて見た。僕は何でも「嘘」「虚栄心」「性欲」「利己心」に還元させるが、その僕よりもさらに先鋭化された自意識で、全てのものを批評していった結果、自殺せざるを得なかった詩人。原口統三。あまり有名ではない人だが、僕にとっては決定的な人だった。
原口統三のアフォリズムで僕がめちゃくちゃ共感できたのはここだ。
原口統三は、キリスト教から派生した近代に殺されたと言ってもいい。ニーチェ主義のある種の徹底化と言ってもいい。ニーチェ曰く
近代人が誠実になろうとして、誠実になれなくて、自殺をした。自殺だけが誠実な行為だった。
宗教は「純粋性」を追及する。僕は、キリスト教から「誠実性」という徳を受け継いだ近代主義が、宗教性を無くしたところに、誠実さという徳を求めて自殺者が現れるのは当然の帰結だったと思う。先ほどの引用のように、自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能なのだから。その代わりに「神」へ「懺悔」するという「誠実さ」の徳を担保するシステムがあったのだろうけど、そのシステムが中抜きされ「誠実さ」という徳だけが残ってしまった。
浄土真宗ではどのように解決するのか?少し長いけど引用する。自殺という例えも出てきて丁度よい。
これは先ほどの原口統三の理屈と全く同じだ。自分を批評する厳しい眼を持つことはできない。なぜなら殺す(批評)する主体側の自力(自己)は必ず残るから。
自力(批評)を自己で完遂(自殺)することは不可能だ。だから、阿弥陀仏に殺される必要がある。許される必要がある。
これで僕の思想的問題は解決できたはずだ。
原口統三のアフォリズムで僕がめちゃくちゃ共感できたのはここだ。
批評とは、他人の中に自己のシルエットを見いだすことにほかならない、というサント・ブーヴの言葉。
しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。————原口統三
原口統三は、キリスト教から派生した近代に殺されたと言ってもいい。ニーチェ主義のある種の徹底化と言ってもいい。ニーチェ曰く
「誠実さ」についてだが、おそらく誰も十分に誠実であったことはない。
近代人が誠実になろうとして、誠実になれなくて、自殺をした。自殺だけが誠実な行為だった。
宗教は「純粋性」を追及する。僕は、キリスト教から「誠実性」という徳を受け継いだ近代主義が、宗教性を無くしたところに、誠実さという徳を求めて自殺者が現れるのは当然の帰結だったと思う。先ほどの引用のように、自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能なのだから。その代わりに「神」へ「懺悔」するという「誠実さ」の徳を担保するシステムがあったのだろうけど、そのシステムが中抜きされ「誠実さ」という徳だけが残ってしまった。
浄土真宗ではどのように解決するのか?少し長いけど引用する。自殺という例えも出てきて丁度よい。
私が私の三心を否定するのではなくて、阿弥陀さまが私の三心を否定するというのが宗祖の他力義です。
一番よく解るのが自殺です。譬えばひもをこう首にまいて両手で引張って死んだ人は一人もいない。力いっぱい引張ったら失神まで行くかも知れないが、失神じゃ死なれません。
あなた方は、ここで小便をしてはならんと思ってはいない。思ってはいないが尿の出口が締ってる。死にますと出るんです。おチンチンだけ生きているというのはないんですからね。
だから、死ぬ時は非常に楽しいそうです。住職をやめる時と似とりゃせんでしょうかね。なんせ、解放ほどいいものはない。住職は楽しい点もあります。が、その地位の責任から解放される時は楽しいでしょうね。この五体を維持する緊張が、一切解きほぐれていくのが死ですからね。みなたいていお婆さんがにっこり笑うて死ぬるのは、不孝者の倅せがれにとっては救いですね。
「お婆ちゃんが徴かすかににっこり笑いました」あれはうれしいからじゃない。一切から解き放されたんだ。
自分で自分の首を締めて自殺することは出来ません。即ち自分が自分を殺すことは出来ないはずです。おかしいでしょう。自分が自分を殺したら、殺した側の自分が生きてなければいけない。それを殺せというのが西山です。そうすると、また殺した側の私がもっと残る。それを殺せ。また残る。これは西山の矛盾です。一が刺して二が刺して、八(蜂)が刺してブンブンという遊びのようですね。酒落たことをいうと双曲線は永久に軸線と交わらない。
それが現実にお寺参りでいうと、
「長いこと聴聞を致しましたが、薄紙一枚の所が解りません」
という人です。今日聞いて今日たすかる御法義をですね、二十年も聞いてまだ薄紙一枚残っている。なぜか。薄紙ではないのです。永久に軸線が触れることが出来ない双曲線です。なぜか。一が刺して二が刺してと、ずーっと自己否定を重ねて、最後まで残るのが抜き難い自力ではありませんか。
それを、阿弥陀さまが罪深いというて下さると、見出されたのが宗祖ですね。これ本当ですね。他殺です。自殺なんてあり得ないわけです。
自分で自分の首を締めて自殺することは出来ません。即ち自分が自分を殺すことは出来ないはずです。おかしいでしょう。自分が自分を殺したら、殺した側の自分が生きてなければいけない。それを殺せというのが西山です。そうすると、また殺した側の私がもっと残る。それを殺せ。また残る。
これは先ほどの原口統三の理屈と全く同じだ。自分を批評する厳しい眼を持つことはできない。なぜなら殺す(批評)する主体側の自力(自己)は必ず残るから。
しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
ずーっと自己否定を重ねて、最後まで残るのが抜き難い自力ではありませんか。
自力(批評)を自己で完遂(自殺)することは不可能だ。だから、阿弥陀仏に殺される必要がある。許される必要がある。
それを、阿弥陀さまが罪深いというて下さると、見出されたのが宗祖ですね。これ本当ですね。他殺です。自殺なんてあり得ないわけです。
これで僕の思想的問題は解決できたはずだ。
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