正しさを証明するために生きる
一時期仏教の流れで「エゴ克服系」のスピリチュアル本を読み漁っていた。スピリチュアル本なんて馬鹿にしていたけれど、結構本質的なことが書かれてあったりする。
幼少期に「自分は誰にも愛されない」という「自我」が構築されると、「自分は誰にも愛されない」という自我意識を「証明」するように人生を構築するようになる。幼少期に愛されなかった人がDVや犯罪のターゲットになるのをよく見てきた。
「自分は不幸なんだ」「自分はメンヘラなんだ」という「不幸な自我」があると、それを証明するような生き方をしてしまう。自分が不幸になるように、「やっぱり自分は不幸なんだな、私は正しい」と思えるように、生きてしまう。変な恋愛をやってみたり、自傷をしてみたり。自分の不幸を証明し続けるために生きているような人を何人も知っている。そういう人は「幸せが怖い」という。「不幸な自分」というアイデンティティが崩れ去ってしまうから怖いのだ。
「やっぱり自分は不幸なんだな」と証明し続ける人生は悲しいと思う。「やっぱり私ってサイコー!」という自我を証明し続ける人生のがよっぽどいいと思う。
自我を改造するには、認知療法か、瞑想が一番いい。
幼少期に「自分は誰にも愛されない」という「自我」が構築されると、「自分は誰にも愛されない」という自我意識を「証明」するように人生を構築するようになる。幼少期に愛されなかった人がDVや犯罪のターゲットになるのをよく見てきた。
「自分は不幸なんだ」「自分はメンヘラなんだ」という「不幸な自我」があると、それを証明するような生き方をしてしまう。自分が不幸になるように、「やっぱり自分は不幸なんだな、私は正しい」と思えるように、生きてしまう。変な恋愛をやってみたり、自傷をしてみたり。自分の不幸を証明し続けるために生きているような人を何人も知っている。そういう人は「幸せが怖い」という。「不幸な自分」というアイデンティティが崩れ去ってしまうから怖いのだ。
「やっぱり自分は不幸なんだな」と証明し続ける人生は悲しいと思う。「やっぱり私ってサイコー!」という自我を証明し続ける人生のがよっぽどいいと思う。
自我を改造するには、認知療法か、瞑想が一番いい。
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