事実
存在するとは知覚されることである。—————ジョージ・バークリー
よう「この目でみた」と確かそうに言いよるが、その目がアヤシイんじゃ。凡夫の目じゃないか。—————澤木興道
ジョージバークリーという哲学者は、世界の全てを観念、「思い」だと主張した。僕の考えている思考も、目に見えている机も、キーボードの堅さも、死んだ母親も、元カノも、リンゴの赤さも、全て観念、「思い」だと主張した。この主張は反駁できないものだと思う。唯物論が当然となっている現代では全てが観念だという主張は受け入れがたいが、反論は難しい。だって「知覚」したものは「存在」して、「知覚」しないものは「存在」しないのは明らかだからだ。全て「僕にとって」「知覚」されたものは「僕にとって」「存在」していて、その逆はその反対になる。僕の部屋に入る前に、「僕にとって」僕の部屋は「存在」したか?していない。存在するとは知覚されることである。
けれども物事には必ず原因がある。その「知覚=観念=存在」の原因を、ジョージバークリーは「神」だとした。「物質」があって、その「物質」が僕の目という「物質」に届いて、それが「観念」になるというのが現代の常識だと思うけれど、バークリーは「神」が原因となって、人間の「精神」に「知覚」を表象させると考えた。
すべては「思い」だとすると仏教的に言うとそれは「凡夫の目」で見た「思い」だということになる。だから、正しいものではない。
「思いは自力、事実は他力」という言葉が浄土真宗の説教で流行ったことがあるらしい。ここでいう「思い」は心の中の「思い」のことだと思うけれど、バークリーのように世界全てを「思い」だと考えることも可能だと思う。凡夫の心の中の「思い」や目に見える「思い」などは、用がない。他力だけが事実だ。「思い」は夢だ。凡夫の世界の「思い」の根底には、慈悲と光の「他力」の「事実」がある。
神や仏は人間の心が作ったものだと、みんな言う。けれども神や仏は人間の心「以前」にある。「思い以前」にたどり着くには信仰しかないんだろう
思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。—————澤木興道
江州草津驛、合羽屋某に対せられての仰せに。 或ときは往生一定と思い、或ときは往生不定と思う。この二つをすてて、ただ弥陀をたのむことじゃ。———香樹院徳龍
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