私はずり落ちた。何度も確かめ合ってあなたの瞳の焦がれるような眼差しで呼吸をしながら青空に落ちていった。感情が小鳥みたいに収斂していく。あなたの手、いやらしい手つき、青いヌメヌメした魚を取り扱うような男らしい手つき。
ずり落ちた。
意識が二重にも三重にもなって意識自意識他人に見られている、殺される、強い力がねめつけてくる、わたしの乳房、ヌメヌメした魚みたいに、意識が意識意識他人に見られている、先生がこっち見てるの、また叱られるのかな。
大丈夫だよ、分かるかな、あなたの顔、神様みたいに
身体と意識の摩擦。私は発狂できなかった。殺されたい気持ちはどこへ持っていけばいいの、先生
爆心地は私の十番目の背骨。誰かが狙ってる、家の中で、挨拶をしない子供たちがひとりひとり銃殺されていく、まるで本を読むように
釈迦、クリシュナムルティ、ラジニーシ、彼らは全員「気づき」を重視している。パーリ語で「サティ」英語で「マインドフルネス」日本語で「気づき」という。
釈迦はいろんな師のもとについたが悟れなかった。クリシュナムルティは、神智学協会から様々な伝統を教え込まれたが、真理は分からなかった。そこで「気づき」によって、身体や心を精査した。そうすると「無常」や「無我」ということが「理解」できた。
現代人は全員懐疑主義者だが「自分」のことは絶対に疑わない。「自分」は存在しないのだが、存在しない自分に立脚して生きている。瞑想、気づきによりラディカルな懐疑主義者になることで、より誠実な真理がわかる。瞑想という主観的な探究により「自分の目」で真理を見ることができる。神を疑うのなら、どうせなら全て疑おう。自分の心を観察すると、心の馬鹿馬鹿しさが見えて、最後に「疑えないもの」が現れる。疑う主体こそが神であったことに気づく
殺してはいけない 盗んではいけない パートナー以外とセックスしてはいけない 嘘をついてはいけない 酒を飲んではいけない
五戒とは何なのか、今までしっくり来なかったけど、最近わかった。これは「依存症防止マニュアル」だった。
万引き依存症、セックス依存症、虚言癖、アルコール依存症、仏教というのは瞑想によって「パターン化されかた自己」を解体する作業だが、依存症というのは、強迫的なパターンだ。パターンを繰り返していると「自分はこういう人だ」という自己像が捏造され、さらに自我という幻想が強くなる。仏教の目的は「全ての執着を捨てること」なのだから、依存症の真逆だ。
元カノの兄がギャンブル依存症だったので、依存症についての本を読み漁った。ギャンブル依存症に典型的なのは「活発にスポーツ系の部活動をしていたけど社会人になってパッとしない人」らしく、元カノのお兄さんもドンピシャだった。ナイスガイ、という自己像から、無能男という自己像への移行が耐えられない。耐えられないから「外側」を見続けるしかない。何かに夢中になると、自分のことは考えなくて済む。
パスカルに「人間の問題はすべて、部屋で1人静かに座っていられないことに由来する」という言葉があるが、何に耐えられないとかと言うと「自分」に耐えられない。何の意味もなく生まれて、苦しんで、死んでいく惨めさに耐えられない。自分が憎くて仕方がない。だから恋愛をする。
僕は正直言うと、孤独感や劣等感を女で誤魔化していた。人に肯定されないと生きられなかった。大丈夫になれなかった。
根本的に「救われる」ためには、自分を徹底的に見つめるしかない。自分の思考と感情を見つめ続けて、理解して、受容する。meditationという言葉はmedicineと親戚らしい。
ラカンは、欲望は他者の欲望である、と言った。全く同意する。僕たちは他者から欲望を学習して生きている。ブルベだのイエベだのが流行っているが、流行る前はそんな欲望はなかった。
金・権力・セックスへの欲望が根底にあり、それらの根から様々な欲望が生え、習慣という果実になる。人間は習慣の奴隷である。習慣を変えるには、思考を変えるしかないが、別の思考体系を取り入れても、また別の習慣の奴隷になるだけだ。
思考というのは過去から出来ているらしい。確かに見知ったことしか考えることはできないのだから、その通りだ。9.11以前に、そのことを思考できた人は誰もいない。思考は過去からできていて、思考は習慣を作り、習慣は人間を縛る。「構造的」に、人間は不自由だ。どんなシステムがインストールされようと、システムというもの自体が不自由だから意味がない。
瞑想というのは「気づく」ことだ。思考に気づき続ける。そうすると「思考は不合理で狂っている」ということが分かる。瞑想とは「意識の質」のことで、座って呼吸を見ることではない。醒めた、明敏な意識で、思考を見守ると、不合理な思考は落ちていく。最終的に「私」が落ちると、人間は過去から自由になる。「私」というのは過去の堆積に他ならない。
友人が「幸福には型がある」と言っていた。そんなものはない。過去に学んだ「型」を未来に投影しているだけだ。
途方もない自由、幸福のためには、瞑想しかない。夢から覚めたら分かったが、瞑想をしていない人は夢を見ている。他者の欲望を生きている。瞑想は本当に途方もない。ただ気づき続けるだけで、本当の自由と幸福が味わえる。
最近、愛とか死とかいった究極の問題については比喩でしか語れない、と思うようになった。愛っていうのは関係性ではなく、独立した個人が放つ香りだと思う。
薔薇が香りを放つように、個人も愛の香水をつけて、周り中にふりまく。薔薇も愛の人も、誰との関係性も、自意識も持たずに、ただ他人に快さを与えていく。言葉で、顔で、香りが運ばれていく。
まずは香水をつける必要がある。自分を愛するということ。生を喜ぶこと。全くの不満のない状態、即自的に存在する薔薇のように存在するとき、人は愛を振りまく。
悟りという言葉に手垢がつきすぎている。「神」という言葉と同じくらい、もしくはそれ以上に胡散臭い。そもそも何を悟るのか?僕ならこう答える。「人生の様々な問題は思考がつくりだしている、ということを悟る」
「恋人がいなければ幸せになれない」とか「病気が良くならなければ幸せになれない」とか、ああしようこうしようという思考が常に頭の中にある。普通、人はその「思考」を自分だと思っているけれど、「思考は自分ではない」と腹の底から理解した時に、催眠のようなものが落ちる。我思う故に我あり、という思考原理主義が、落ちる。「思考との同一化がただ問題のようなものをでっちあげていただけで、本当は何も問題などない」と腹の底から理解した時に、催眠が解ける。
今、目を瞑って思考を観察してみて欲しい。数秒間、思考が浮かばない状態だったと思う。もしも堅固な「自己」というものが存在しているとして、それが、現れたり消えたりする言葉=思考であるだろうか?
脳や身体が「自己」だと主張する人もいるかもしれないが、そういう人も「脳や身体が自己である」と思っている「思考」がやはり自己だと思っている。
悟りを伝える人ってわざとなのかどうか知らないけれど、説明が下手すぎると思う。クリシュナムルティはド下手、ラマナ・マハルシもド下手、ジョーイ・ロットも下手、バタ足ノンデュテリティも下手、トニー・パーソンズ系統も下手、ニサルガダッタ・マハラジも下手、ラメッシ・バルセカールも下手。グレッグ・グッドとルパート・スパイラはまあまあ分かりやすいが、方法がない。
マシな悟りの本ってoshoとエックハルト・トールぐらいだと思う。方法論もあるし、エゴが落ちるのは「理解」だと明言している。ただどちらも胡散臭い。
悟った後の風景と、悟る前の風景をごちゃ混ぜにしているのが原因だと思う。悟った後の「知覚」と、悟った後の「知覚」は何も変わらない。エルンスト・マッハの有名な絵をググって欲しい。悟る前も悟った後もどちらもあれと同じだ。こういうことを説明しないから、勝手に「意識が膨張する」とか「真理がスパンとわかる」みたいな妄想をしてしまう。実際は「思考と同一化することこそが苦しみの原因」ということがハートから理解できる。クリシュナムルティは「思考の欠陥を理解すれば自然と手放す」みたいなことを言ってたし、エックハルト・トールは「焼けた炭に手を近づけた時と同じ」と言っている。
「もともと悟っている」とか「できることは何もない」とか「何かをしようとするその「自分」が問題」とか、言っていることは正しいし、その言葉で思考の催眠を解こうとしているんだけれど、実際その言葉が打てば響くように伝わる人って稀だと思う。言葉だけで「気づく」人もいると思うけれど、ほとんどの人は「思考が問題」と知性で理解しても、催眠は解けない。
だから瞑想が必要になる。瞑想することによって、思考との「距離」ができる。呼吸を見たり、身体に気づき続けると「思考」を客観的に見ることができる。ある程度、瞑想すると、思考を観ている者と、思考とは別のものだと理解できる。だからと言って、すぐに思考=自己である、という洗脳は解けない。瞑想を根気強く続けるのが大事だと思う。
瞑想はなんでもいいと思うけれど、手動瞑想とoshoの「ディヤン・スートラ」という本がオススメ。
瞑想を根気強く行って、瞑想が生活に浸透してくるぐらいになると「あれ?思考してなくても身体勝手に動いてね?」みたいな洞察が増える。最終的に「あれ?思考って自分のこと傷つけてるだけじゃん」と理解すると「自分」が全部落ちて、多分凄い笑うと思う。「全部自分に騙されてた」って笑うと思う。僕はめっちゃ笑った。
で、自己が落ちると、なぜか「自分と世界は分離していない」みたいな理解も起きる。なんでなのかは分からない。「自分は身体である」という思い込み?がなくなったので、そうなるのかもしれない。
こういう系の本を読みながら、瞑想をおこなっていると、自然に自己が落ちる。oshoが一番いいと思うけど、それは本の数が多いというのと、単純にメチャクチャ面白いというのと、瞑想の方法が分かりやすいという理由がある。エックハルト・トール一本でやっても全然いいと思う。
悟りってそんな大袈裟なものじゃなかった。僕の場合「女がいなければ惨め」とか「本を読んで頭良くならなければ惨め」というのが落ちたので、すごくリラックスして生活できる。過去のことも未来のことも全く考えなくていいので、後悔とか不安もなくなった。自然体でいられる。
みんなが大事そうにしている「自己っぽいもの」って全然大事じゃない。むしろ不幸になる。SNSを見ていると、他者にどう見られるかをメチャクチャ気にして病んでそうな人が多い。
この記事読んでoshoかエックハルト・トール読んでアホみたいに実践していれば、誰でも悟れると思う
お金を取る人は全員詐欺師なので近寄らないでください
永遠 という題の詩を書こうとしたが
その 遠さと陳腐さに 疲れてしまった僕は
ひねりつぶした 指先で 蟻を殺すように 永遠を
パロディのパロディ 凍てつく冬の夜 反復された
遊歩道
堆く 積もった 春の雪が 繰り返した 白夜
遠いところで 不思議な虫の音 創造の音がした 闇の
病んだ肺 しくしく痛む 苦痛だけが永遠だと信仰する 僕たちの神様
生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦から、逃れる方法はあるのだろうか?これらの共通因子はなんだろうか?
それは身体である。身体がなければ、これらの苦しみは一切起きない。ところで僕は、この体だろうか?
なぜこの体が僕なのか?証拠があるのか?この皮膚の内側にあるものが自分だとなぜ言えるんだろう。自明過ぎて今まで問うたことはなかった。
瞑想によって無我を悟った人間は、これらの苦しみから逃れられる。病苦があったとしても、それに同一化しないので、第二の矢は刺さらない。しかし瞑想によって無我を悟るのは莫大な時間がかかる。
「私は体ではない」という観念を完全に受容してはどうだろうか?私は体ではない、というのは確かに尋常ではない言明だが、あえてそれを受け入れる。信頼する。するとその受容によって、身体と脱同一化できる。一つの観念によって、もう一つの観念を剥がすことができる。
「私はこの体ではない」という言葉をお守りにする。それが完璧に腑に落ちた時、体を超えたものになる。
マナナというのはインドの言葉で「熟考」という意味らしい。
ランジット・マハラジは「蟻の道」と「鳥の道」という区別を提唱していて、前者の蟻の道というのは瞑想などの修行によってエゴを滅する方法で、後者の鳥の道というのは、師の言うことを理解することでエゴを滅する方法である。
釈迦も説法だけで人を悟らせることがよくある。鳥の道で重要なのは、師への信頼と熟考である。
今まで読んできた本で、熟考するとエゴが消滅するような観念を書き出してみる。観念とは全て条件付けであり、何かしらの観念はエゴの消滅の原因になることがある。
撮り終わった映画が上映されている
この世界は長い夢だ
あなたは偏在している
あなたは体ではない
行為者は存在しない
この世は全て真実ではない
全ては意識である
You are He
何も創造されていないし、何も破壊されない
あなたは生まれていない
いろんな著作の中で、このようなフレーズが繰り返される。それが腑に落ちた時、エゴが消える。エゴが消えるのか、消えないのか、消えるならいつ消えるのかは分からないが、エゴにはどうすらこともできない。既に撮り終わっている映画が上映されているだけだからだ。
瞑想というのは受容性を高める行為なので、マナナと並行してやるのがいいと思う。全ては受容の問題だ。
クリシュナムルティは徹底的な伝統否定者で、例外なく全ての伝統を否定する。仏教もキリスト教も共産主義も幻想だと一蹴し、そういったものへの依存からの脱出を説く。これは恐らく彼が古今東西のスピリチュアルな伝統を幼少期に神智学協会から押し付けられていたことの反動であると思われる。全ての条件付けからの解放。
釈尊が言っていることも同じなのだが、釈迦には明確な方法論がある。しかし方法それ自体も幻想である。釈迦に言わせれば方法というのは、向こう岸に向かうための筏のようなものであって、向こう岸へ着いたなら、放棄するべきものだ。陸へ着いても筏を大事そうに担いでいる人間は阿呆だ。
ラマナマハルシも上手い例えをしていて、指に棘が刺さっていたら、もう一本の棘で抜く。そのあと二つとも捨てる。そのように、幻想はもう一つの幻想でしか払拭することはできないが、払拭したあとはどちらの幻想も捨てる。
あらゆる依存や恐怖からの解放。それが悟りというものだと思うが、クリシュナムルティは晩年、自分の教えで何かを得たものは一人もいないとぼやいていた。クリシュナムルティの言っていることは、知性的には完全に正しいが、凡夫には方法が必要であると、僕は思う。