クリシュナムルティと釈尊、もしくはラマナマハルシ
クリシュナムルティは徹底的な伝統否定者で、例外なく全ての伝統を否定する。仏教もキリスト教も共産主義も幻想だと一蹴し、そういったものへの依存からの脱出を説く。これは恐らく彼が古今東西のスピリチュアルな伝統を幼少期に神智学協会から押し付けられていたことの反動であると思われる。全ての条件付けからの解放。
釈尊が言っていることも同じなのだが、釈迦には明確な方法論がある。しかし方法それ自体も幻想である。釈迦に言わせれば方法というのは、向こう岸に向かうための筏のようなものであって、向こう岸へ着いたなら、放棄するべきものだ。陸へ着いても筏を大事そうに担いでいる人間は阿呆だ。
ラマナマハルシも上手い例えをしていて、指に棘が刺さっていたら、もう一本の棘で抜く。そのあと二つとも捨てる。そのように、幻想はもう一つの幻想でしか払拭することはできないが、払拭したあとはどちらの幻想も捨てる。
あらゆる依存や恐怖からの解放。それが悟りというものだと思うが、クリシュナムルティは晩年、自分の教えで何かを得たものは一人もいないとぼやいていた。クリシュナムルティの言っていることは、知性的には完全に正しいが、凡夫には方法が必要であると、僕は思う。
釈尊が言っていることも同じなのだが、釈迦には明確な方法論がある。しかし方法それ自体も幻想である。釈迦に言わせれば方法というのは、向こう岸に向かうための筏のようなものであって、向こう岸へ着いたなら、放棄するべきものだ。陸へ着いても筏を大事そうに担いでいる人間は阿呆だ。
ラマナマハルシも上手い例えをしていて、指に棘が刺さっていたら、もう一本の棘で抜く。そのあと二つとも捨てる。そのように、幻想はもう一つの幻想でしか払拭することはできないが、払拭したあとはどちらの幻想も捨てる。
あらゆる依存や恐怖からの解放。それが悟りというものだと思うが、クリシュナムルティは晩年、自分の教えで何かを得たものは一人もいないとぼやいていた。クリシュナムルティの言っていることは、知性的には完全に正しいが、凡夫には方法が必要であると、僕は思う。
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