努力する奴は意地汚い
努力する奴は意地汚い。僕は人生で一度も努力したことがないので、仏教を例にして考える。
仏教には大きく分けて二つの流れがある。北に伝わった大乗仏教と、南に伝わった小乗仏教である。
大乗仏教の理想像は菩薩で、小乗仏教の理想像は阿羅漢である。菩薩というのは悟りの智慧を持ちながら、あえて解脱せずに民衆を導くもののことで、阿羅漢というのは悟りを開いて解脱している人間のことだ。
努力という言葉が使われるのは大体、受験勉強の文脈だと思うが、「医者になってたくさんの人を救いたい」といったような高い志を持った菩薩は見たことがない。自分の年収を勘定している人か、名誉欲の強い人、等しか見たことがない。
努力が美しいか汚いかどうかは、その人の人格によるもので、努力それ自体を礼賛するのは間違っている。龍樹は、小乗の悟りに陥るのは地獄より酷いと書いてある。
大前提として、人間は、自分の安全を第一に考える。そしてそのために努力をする。僕は、努力は意地汚いものだと思う。
努力というのは、本質的に言って、自分への負荷である。本質を見抜いてる医者の人が、自分よりも古代に奴隷船に乗っていた人の方が努力していたと言っていたが、その通りである。自分への負荷が強いほど偉いならば、うつ病患者が一番偉いことになる。
人間には苦行礼賛という謎の習性があり、例えば何十年も沈黙している人や、比叡山を登った人がなぜか偉いとされる。しかしその苦行を六年やってその無益さに気づいたのが釈迦であり、苦行そのものを崇めるのは間違っている。
仏教には大きく分けて二つの流れがある。北に伝わった大乗仏教と、南に伝わった小乗仏教である。
大乗仏教の理想像は菩薩で、小乗仏教の理想像は阿羅漢である。菩薩というのは悟りの智慧を持ちながら、あえて解脱せずに民衆を導くもののことで、阿羅漢というのは悟りを開いて解脱している人間のことだ。
努力という言葉が使われるのは大体、受験勉強の文脈だと思うが、「医者になってたくさんの人を救いたい」といったような高い志を持った菩薩は見たことがない。自分の年収を勘定している人か、名誉欲の強い人、等しか見たことがない。
努力が美しいか汚いかどうかは、その人の人格によるもので、努力それ自体を礼賛するのは間違っている。龍樹は、小乗の悟りに陥るのは地獄より酷いと書いてある。
大前提として、人間は、自分の安全を第一に考える。そしてそのために努力をする。僕は、努力は意地汚いものだと思う。
努力というのは、本質的に言って、自分への負荷である。本質を見抜いてる医者の人が、自分よりも古代に奴隷船に乗っていた人の方が努力していたと言っていたが、その通りである。自分への負荷が強いほど偉いならば、うつ病患者が一番偉いことになる。
人間には苦行礼賛という謎の習性があり、例えば何十年も沈黙している人や、比叡山を登った人がなぜか偉いとされる。しかしその苦行を六年やってその無益さに気づいたのが釈迦であり、苦行そのものを崇めるのは間違っている。
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