悟り方
悟りという言葉に手垢がつきすぎている。「神」という言葉と同じくらい、もしくはそれ以上に胡散臭い。そもそも何を悟るのか?僕ならこう答える。「人生の様々な問題は思考がつくりだしている、ということを悟る」
「恋人がいなければ幸せになれない」とか「病気が良くならなければ幸せになれない」とか、ああしようこうしようという思考が常に頭の中にある。普通、人はその「思考」を自分だと思っているけれど、「思考は自分ではない」と腹の底から理解した時に、催眠のようなものが落ちる。我思う故に我あり、という思考原理主義が、落ちる。「思考との同一化がただ問題のようなものをでっちあげていただけで、本当は何も問題などない」と腹の底から理解した時に、催眠が解ける。
今、目を瞑って思考を観察してみて欲しい。数秒間、思考が浮かばない状態だったと思う。もしも堅固な「自己」というものが存在しているとして、それが、現れたり消えたりする言葉=思考であるだろうか?
脳や身体が「自己」だと主張する人もいるかもしれないが、そういう人も「脳や身体が自己である」と思っている「思考」がやはり自己だと思っている。
悟りを伝える人ってわざとなのかどうか知らないけれど、説明が下手すぎると思う。クリシュナムルティはド下手、ラマナ・マハルシもド下手、ジョーイ・ロットも下手、バタ足ノンデュテリティも下手、トニー・パーソンズ系統も下手、ニサルガダッタ・マハラジも下手、ラメッシ・バルセカールも下手。グレッグ・グッドとルパート・スパイラはまあまあ分かりやすいが、方法がない。
マシな悟りの本ってoshoとエックハルト・トールぐらいだと思う。方法論もあるし、エゴが落ちるのは「理解」だと明言している。ただどちらも胡散臭い。
悟った後の風景と、悟る前の風景をごちゃ混ぜにしているのが原因だと思う。悟った後の「知覚」と、悟った後の「知覚」は何も変わらない。エルンスト・マッハの有名な絵をググって欲しい。悟る前も悟った後もどちらもあれと同じだ。こういうことを説明しないから、勝手に「意識が膨張する」とか「真理がスパンとわかる」みたいな妄想をしてしまう。実際は「思考と同一化することこそが苦しみの原因」ということがハートから理解できる。クリシュナムルティは「思考の欠陥を理解すれば自然と手放す」みたいなことを言ってたし、エックハルト・トールは「焼けた炭に手を近づけた時と同じ」と言っている。
「もともと悟っている」とか「できることは何もない」とか「何かをしようとするその「自分」が問題」とか、言っていることは正しいし、その言葉で思考の催眠を解こうとしているんだけれど、実際その言葉が打てば響くように伝わる人って稀だと思う。言葉だけで「気づく」人もいると思うけれど、ほとんどの人は「思考が問題」と知性で理解しても、催眠は解けない。
だから瞑想が必要になる。瞑想することによって、思考との「距離」ができる。呼吸を見たり、身体に気づき続けると「思考」を客観的に見ることができる。ある程度、瞑想すると、思考を観ている者と、思考とは別のものだと理解できる。だからと言って、すぐに思考=自己である、という洗脳は解けない。瞑想を根気強く続けるのが大事だと思う。
瞑想はなんでもいいと思うけれど、手動瞑想とoshoの「ディヤン・スートラ」という本がオススメ。
瞑想を根気強く行って、瞑想が生活に浸透してくるぐらいになると「あれ?思考してなくても身体勝手に動いてね?」みたいな洞察が増える。最終的に「あれ?思考って自分のこと傷つけてるだけじゃん」と理解すると「自分」が全部落ちて、多分凄い笑うと思う。「全部自分に騙されてた」って笑うと思う。僕はめっちゃ笑った。
で、自己が落ちると、なぜか「自分と世界は分離していない」みたいな理解も起きる。なんでなのかは分からない。「自分は身体である」という思い込み?がなくなったので、そうなるのかもしれない。
こういう系の本を読みながら、瞑想をおこなっていると、自然に自己が落ちる。oshoが一番いいと思うけど、それは本の数が多いというのと、単純にメチャクチャ面白いというのと、瞑想の方法が分かりやすいという理由がある。エックハルト・トール一本でやっても全然いいと思う。
悟りってそんな大袈裟なものじゃなかった。僕の場合「女がいなければ惨め」とか「本を読んで頭良くならなければ惨め」というのが落ちたので、すごくリラックスして生活できる。過去のことも未来のことも全く考えなくていいので、後悔とか不安もなくなった。自然体でいられる。
みんなが大事そうにしている「自己っぽいもの」って全然大事じゃない。むしろ不幸になる。SNSを見ていると、他者にどう見られるかをメチャクチャ気にして病んでそうな人が多い。
この記事読んでoshoかエックハルト・トール読んでアホみたいに実践していれば、誰でも悟れると思う
お金を取る人は全員詐欺師なので近寄らないでください
「恋人がいなければ幸せになれない」とか「病気が良くならなければ幸せになれない」とか、ああしようこうしようという思考が常に頭の中にある。普通、人はその「思考」を自分だと思っているけれど、「思考は自分ではない」と腹の底から理解した時に、催眠のようなものが落ちる。我思う故に我あり、という思考原理主義が、落ちる。「思考との同一化がただ問題のようなものをでっちあげていただけで、本当は何も問題などない」と腹の底から理解した時に、催眠が解ける。
今、目を瞑って思考を観察してみて欲しい。数秒間、思考が浮かばない状態だったと思う。もしも堅固な「自己」というものが存在しているとして、それが、現れたり消えたりする言葉=思考であるだろうか?
脳や身体が「自己」だと主張する人もいるかもしれないが、そういう人も「脳や身体が自己である」と思っている「思考」がやはり自己だと思っている。
悟りを伝える人ってわざとなのかどうか知らないけれど、説明が下手すぎると思う。クリシュナムルティはド下手、ラマナ・マハルシもド下手、ジョーイ・ロットも下手、バタ足ノンデュテリティも下手、トニー・パーソンズ系統も下手、ニサルガダッタ・マハラジも下手、ラメッシ・バルセカールも下手。グレッグ・グッドとルパート・スパイラはまあまあ分かりやすいが、方法がない。
マシな悟りの本ってoshoとエックハルト・トールぐらいだと思う。方法論もあるし、エゴが落ちるのは「理解」だと明言している。ただどちらも胡散臭い。
悟った後の風景と、悟る前の風景をごちゃ混ぜにしているのが原因だと思う。悟った後の「知覚」と、悟った後の「知覚」は何も変わらない。エルンスト・マッハの有名な絵をググって欲しい。悟る前も悟った後もどちらもあれと同じだ。こういうことを説明しないから、勝手に「意識が膨張する」とか「真理がスパンとわかる」みたいな妄想をしてしまう。実際は「思考と同一化することこそが苦しみの原因」ということがハートから理解できる。クリシュナムルティは「思考の欠陥を理解すれば自然と手放す」みたいなことを言ってたし、エックハルト・トールは「焼けた炭に手を近づけた時と同じ」と言っている。
「もともと悟っている」とか「できることは何もない」とか「何かをしようとするその「自分」が問題」とか、言っていることは正しいし、その言葉で思考の催眠を解こうとしているんだけれど、実際その言葉が打てば響くように伝わる人って稀だと思う。言葉だけで「気づく」人もいると思うけれど、ほとんどの人は「思考が問題」と知性で理解しても、催眠は解けない。
だから瞑想が必要になる。瞑想することによって、思考との「距離」ができる。呼吸を見たり、身体に気づき続けると「思考」を客観的に見ることができる。ある程度、瞑想すると、思考を観ている者と、思考とは別のものだと理解できる。だからと言って、すぐに思考=自己である、という洗脳は解けない。瞑想を根気強く続けるのが大事だと思う。
瞑想はなんでもいいと思うけれど、手動瞑想とoshoの「ディヤン・スートラ」という本がオススメ。
瞑想を根気強く行って、瞑想が生活に浸透してくるぐらいになると「あれ?思考してなくても身体勝手に動いてね?」みたいな洞察が増える。最終的に「あれ?思考って自分のこと傷つけてるだけじゃん」と理解すると「自分」が全部落ちて、多分凄い笑うと思う。「全部自分に騙されてた」って笑うと思う。僕はめっちゃ笑った。
で、自己が落ちると、なぜか「自分と世界は分離していない」みたいな理解も起きる。なんでなのかは分からない。「自分は身体である」という思い込み?がなくなったので、そうなるのかもしれない。
こういう系の本を読みながら、瞑想をおこなっていると、自然に自己が落ちる。oshoが一番いいと思うけど、それは本の数が多いというのと、単純にメチャクチャ面白いというのと、瞑想の方法が分かりやすいという理由がある。エックハルト・トール一本でやっても全然いいと思う。
悟りってそんな大袈裟なものじゃなかった。僕の場合「女がいなければ惨め」とか「本を読んで頭良くならなければ惨め」というのが落ちたので、すごくリラックスして生活できる。過去のことも未来のことも全く考えなくていいので、後悔とか不安もなくなった。自然体でいられる。
みんなが大事そうにしている「自己っぽいもの」って全然大事じゃない。むしろ不幸になる。SNSを見ていると、他者にどう見られるかをメチャクチャ気にして病んでそうな人が多い。
この記事読んでoshoかエックハルト・トール読んでアホみたいに実践していれば、誰でも悟れると思う
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