人生入門

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生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

電車

 電車でメイクする女性に物申したい。

 俺は電車で化粧をする女が嫌いだ。化粧というのは根源的な暴力であり、その者の実存を本質主義で覆い隠すカーテンでしかありえない。どんなオリジナルなメイクをしても、その女の多動性、流動性、せせらぎのようなしなやかさをパターン化する悪魔である。目の前で化粧をする女を見ながら、そんなことを考える。この女はいったい誰なのか?化粧をすれば、何かに近づくのか?それとも化粧の下に、その女の魂が隠れているのか?
 その女以外のすべてが背景と化した。俺は電車で化粧をする女が嫌いだ。この電車の中には、その女と俺しかいない。化粧で今風にデフォルメされた謎の女と、俺。一体俺らは誰なのか?ここはどこなのか。一生記憶喪失の俺らはゴトゴト列車に揺られて揺れる。揺れる。揺れても何も分からない。俺の猥雑な欲望は、その化粧を剥ぎ取って、お前の素顔を拝んでやろうとたくらむのだが、その化粧の下にはただ肉が広がっていて、それだけでは飽き足らず、もっと奥のほうまで知りたいと思ってしまう。お前は誰なんだ、俺は誰なんだ。
 ここはどこなんだ。ずいぶん遠くまで来た気がする。行先はどこだったかな。

 化粧をする女性があまりに美しいので俺は駅を逃したのだ。

繋ぎちゃん

 繋ぎちゃんという友達がいた。繋ぎちゃんというのは僕がつけた名前で、由来はあるんだけどここでは伏せとく。
 繋ぎちゃんとはスカイプちゃんねるで知り合って、僕が植物とゾンビが殺しあうゲームをしながら毎日通話してた。声が特徴的で、声優の専門学校にスカウトされたことがあるらしい。顔は見たことがあるけど、腐女子!って感じだった。
 まあネットだけの関係だからあんまり思い出もないけど(いやあるけど)繋ぎちゃんのことはめっちゃ好きだった。繋ぎちゃんにゆきのちゃんという友達を紹介したんだけれど、ゆきのちゃんが自殺しちゃって、それに感化されて(?)繋ぎちゃんも死んでしまった。

 繋ぎちゃんの将来の夢は「毎日を穏やかに生きること」って言ってた。お前の夢は俺が継ぐぜ!毎日を穏やかに生きる。繋ぎちゃん忘れないよ〜

2019年 6月16日

母親が30分前に死にました
スポーツが好きな母親で、東京オリンピックを生で見たいと言っていました
泣いてはいますが、不思議と悲しい気持ちはありません

何もかも疲れた

 疲れた。人生、何もいいことがない。

 赤ちゃんになりたい。何にも責任を取りたくない。

 疲れた

 疲れた

 疲れた

 疲れた

 ずっと寝ていたい 楽しい夢だけ見ていたい

 疲れた

 何もしたくないけれど何かしなければ自分を保てない
 
 疲れた

 焦りと絶望しかない

 疲れた

 何もいいことがない

 なんで生まれてきたんだろう

 悲しいことばかり

 何も考えたくない

まあ結局人それぞれだよね

僕は「まあ人それぞれだよね」というのが大嫌いだったのだが(それを言ったら終わるから)、それに反論することもできなかった。人それぞれの主張があって、それを尊重しなければならないというのは、抗えないモンだと思っていた。仏教の原理を知るまでは。

思想とは「すべて出来上がったうえでの話」でしかない。仏法とは「すべて出来上がる以前」のことである。————沢木興道

禅は、「思想」以前を追及する。思想以前の「現実」を追及する。ここに一つ、「人それぞれだよね」を乗り越える道があると思った。「現実」は一つしかないから。人それぞれの「現実」があるんじゃないの?と言われるかもしれないが、人それぞれのものは「思想」である。自己と他者と宇宙がぶっ続きになった生命そのもの。まあそれは修行した人にしか分からない。禅はいいな。

我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ

これを始めて読んだとき、「え、こんな簡単なことでよかったのか」と思ってしまった。私は聖人ではない。彼は愚か者ではない。共に「凡夫」なのだ。凡夫とは、煩悩の炎に焼かれて、正常な判断、正常な思考ができなくなったバカモンのことである。そして、仏以外はみんなバカモンなのである。僕もあなたも正しくない。「みんな違ってみんなダメ」ただそれを知るのは仏だけである。みんな間違っている。言葉は嘘を吐く道具だ、というのが僕の信条。

煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は 
よろずのこと みなもって
そらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておわします

煩悩の固まりであるような私たち、火のついた家のようにはかない世界にでは、
全てのことは、みな
嘘偽りばかりで、なにひとつとして真実はないのに、
ただ念仏だけが真実なのである。—————親鸞

ただし僕の中には「本当のもの」を求める欲求が吹き荒れている。全てが嘘、というのは少し物足りない。念仏はまことかもしれない、と思っている。多分まことなんだ。みんな嘘しかつかない世の中で、念仏だけがまことなんだ。阿弥陀仏の慈悲だけがまことなんだ。仏は嘘をつかない。ただしそれは他を排除することではない。無量寿経の41願から48願にとかれている通り、阿弥陀仏は「他方国土の諸菩薩衆」にも頑張ってほしいと願われている。そういうところも含めてまことだと思うんだな。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。


この詩に対して、アンビバレントな感情を抱いていて、なんでだろうと思っていたが、さっき氷解した。「みんな違ってみんないい」の部分を「思想」ととると、僕の嫌いな「まあ人それぞれいろんな考え方があるよね」になる。「いろんな考え方」は全部バカモンの嘘である。けれど「みんなちがってみんないい」の部分を「生き方」ととると、いろんな生き方、いろんな花の咲かせ方があって、それは素敵だなと思う。人それぞれ、いろんな花を咲かせたらいいと思う。

宗教とは何か

 宗教を「大きな物語」ということがある。相対主義の現代ならではの表現だと思う。宗教は物語である、という表現は確かに消化しやすい。神が世界を作ったとか、阿弥陀仏が助けてくれるとか、そういう「物語」の中に、人生を融解させていく。人生が一つの目的を持った物語になって、紡がれていく。けれど、僕はこの物語という言葉が好きではない。
 宗教は物語だ、という言葉には、「結局空想の産物だ」とか「いろいろな物語がある」という意味が含まれていると思う。特に後者のほうが問題。宗教が空想の産物だとかいうのはどうでもいいけれど、服を着替えるみたいに、いろいろな物語の中から、一つを選んで、それにコミットメントしていくのが宗教だと思ってる人が多いんじゃないか。

 家族を作って、それなりに儲けて、それなりに楽しくやって、最後に無になる、というのも物語である。けれどもこの物語は自分で選び取ったものではない。最後は永遠の命を得るという物語を持っている人もいるし、輪廻転生するという物語を持っている人もいる。

 この前「別に信仰しなくていんじゃない?」と言われた。今の物語、死んだら無になるという物語は自分で選び取ったものではない。周りの環境から押し付けられた、周りの縁によって生起した物語にすぎない。僕は宗教(物語)というものは「出会い」「縁」だと思う。共産主義という物語に会わなければ、共産主義者にはならない。

 「宗教」とは向こうからやってくるものなのだ。僕がわざわざ服を選んで着るみたいに、自分でつかみとるものじゃない。向こうからの呼び声があって、それに随順していく。
 今僕や君が持っている「死んだら無になる」という物語も、多数の「呼び声」によって紡がれた物語である。死んだら無だよ、死ななきゃ分からない、そんなこと考えるのやめなさい、という呼び声があった。
 無始から阿弥陀仏が呼んでいるという「事実」は俺が選ぶわけじゃない。俺が選ぶのじゃないから、絶対なのだ。俺のものじゃないから。

近代人再考

〈蟪蛄(けいこ)春秋(しゅんじゅう)を識(し)らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節(せつ)を知(し)らんや〉


意味:蟪蛄(けいこ)(夏ぜみ・ひぐらし)は(夏だけの命で)、春と秋を知らない。季節(春秋)を知らないのであるから、この虫は、どうして今の朱(しゅ)陽(よう)(夏)が夏であることを知りえようか。


YouTubeで浄土真宗の法話を聞いていたら、素晴らしい寓話が出てきた。セミは夏にミンミン鳴いているが、夏だけの命である。だから、セミは夏のことを知らない。今が夏ということを知らない。季節というものを知らない。

2年前に別のブログに載せた文章を再掲する。

自己作用するものは、全て、二つに分裂する。自分を殴る人間は、殴る自分と、殴られる自分に分裂する。主体と客体に分裂する。
 自我は、基本的には、対象へ向かっているが、時には自己を対象とすることがある。外界を対象とする意識と、意識自身を対象とする意識は、似ているようで全然違う。外界へ向かっている意識は、言わば、「無意識」の自我だ。己の「関心」や「習慣」を通して、外界と交わる。ここには意識の分裂が全く見られない。動物の意識と言ってもいいだろう。
 自分自身を対象とする意識は、自意識とも言われるし、反省とも言われる。「見る」自分と、「見られる」自分が分裂する。前者の自我が、後者の自我を、批評する。
 誠実さや謙虚さを、己の格率として掲げている人を想像してみる。たしかに、「見られる」自分は、「見る」自分の批評精神と、鋭い観察で、改造することができるかもしれない。だが、「見る」精神のほうは、それで誠実だと言えるのだろうか?何者にも審査されていないし、この精神は、他者(見られる自分)を裁いているだけだ。
 では、この見る精神を批評、チェックしてみよう。そうすると、また、見る精神と見られる精神に分裂する。「この批評するだけのオレ=精神は、傲慢ではないか?この批評精神自体も批評してみよう」これは、原理的に無限に続く。無限に分裂する。
 必ず、「見る」精神という逃げ場が、人間の精神の中に潜んでいるのだ。この精神全てを見渡すことはできない。どうしても、主体と客体に分裂してしまう。この逃げ場、秘密基地を持っている人間を、僕は近代人と呼ぼうと思う。僕は近代人である。近代人が極限まで誠実であるためには、この逃げ場すら壊す必要がある。すなわち、自殺すること。
 誠実な近代人は、自己欺瞞をして生きるか、自殺をするかしかない。たぶん、おそらく


 これを2年ぶりに見て、まったく内向的な思考をしているなと思った。確かに「自分」が「自分」を観れば、その見る「自分」は誰なのか?という問題が起きて、無限遡及する。「自分」が「自分」を見ても、「自分」は誰なのか分からない。夏しか知らないセミと同じだ。
 ここに「他者」というファクターを置くことも可能だろうが、僕はそれをしない。それをするのは境界性人格障害が死に物狂いで他人に承認を求めるのと同じだと知っているからだ。「自分」の代わりに「他者」を置くことはしない。確かに「他者」はある程度、春や秋の代わりをすることはできるが。
 僕は、「自分」を見る「自分」というセミを打破するために、「絶対者」つまり「阿弥陀」を置いたんだなと思った。意識的にも無意識的にも、無限遡及を「打ち方やめ(澤木興道)」するにはそうするしかなかったと僕は知っていた。

 さっき、コーラを買いに外に出た。夜空を見た。雄大だった。浄土真宗では仏の光に照らされて本当の自分を知る、とよく言う。「自分」の代わりに「阿弥陀」を置くことは、星空から自分を見ること、これである。青空を見て、自分のちっぽけさを感じたことはないだろうか。宇宙の無限さを考えて、震えたことはないだろうか。しかしここにはパスカルが慄いたような、乾いた沈黙の宇宙ではなく、無限の大慈悲の阿弥陀仏がいるのである。


 

41願

俺は結局救われないんだという根本気分があるので、41願のような些末なことが気になる。俺は根本的に救われないという気分が不安な思考を作り上げている。
俺は結局救われるという18願の思考に至れば41願についての不安も取り除かれると思うので41願についてあれこれするより18願を思うほうが先決な気がしてきた。
41願について、合理的な解釈は山ほどある。コウガツインジンレイやほかのお坊さんやヤフー知恵袋など。それらを受け入れられないのは、結局自力の心で解釈してしまうから。
救われない理由を探していて、それを41願に集約させている気がする。俺が救われないのは俺が自力で生きているからだけど、それを41願のせいにしている気がする。
あれこれ経典を解釈しても、一人では限界があるし、何よりも自分が救われないように救われないように読んでしまう。本当は弥陀の慈悲の現れとして読まなければいけないのに。
自力の心が消えて、他力的に、慈悲的に、読めるようになれば、41願も自力聖道門の人を他力に引きいれるための願、というような慈悲深い読み方が自然とできるようになるのだと思う。

わたしが勧めている念仏は、中国や日本において、慧遠や吉蔵や源信等の智者たちが理解している仏さまの姿や浄土の様子を思い浮かべる念仏(観想念仏)ではなく、また学問を重ねて念仏の意義や功徳を悟ったうえで申す念仏でもありません。ただ極楽に往生するためには、南無阿弥陀仏と申すことです。阿弥陀仏の救いの力に疑いをはさむ余地もなく、必ず往生できるのだという思いを懐いて念仏を申す外には、別にあれこれと修行する方法はありません。

第41願について

設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字至于得仏諸根闕陋不具足者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。

この願が、1か月以上引っかかっていた。この願を、念仏者は身体障碍にならないと説いてる本があり、だったらば、身体障碍者は往生できないじゃないかと思い、ずっと悩んでいた。いろいろな解釈があったが、僕は香月院深励の解釈が正しいと思う。

まず香月院深励は、元暁の遊心安楽道を引いて、41願から48願の対象を十住以上の菩薩とする。なぜ十住以上の菩薩なのかと言えば、十住以上の菩薩は三悪道(地獄、餓鬼道、修羅界)に堕ちることがないから、浄土を願わずに、浄土の外で衆生済度を行う、いわゆる「浄土嫌い」の菩薩がいるからだ。ちなみに遊心安楽道の著者は元暁かどうか疑われているが、遊心安楽道は法然の選択集にも引用されているように、日本の浄土教に非常に深い縁があるので、偽書かどうかは関係がないと思う。
そして、その十住以上の菩薩を、なんとかして浄土に引き入れるために、名号を聞かせようと起こしたのが、41〜48願の「他方国土の諸菩薩衆」への願だというわけ。41願には阿弥陀仏の名号を聞くと、他方国土の諸菩薩衆は諸根が具足すると書いてある。48願にはただちに無生法忍を得るとも書かれてある。こういった、聖道門の菩薩が欲しがるような願を制定することで、浄土のほうを向いていなかった十住以上の菩薩をも、浄土に引き入れることができる。41願はそういう願らしい。
これで、一応は納得した。

母の日

 世界中の子供が、親に何を思っているかというと、感謝と謝罪、すなわちありがとうとごめんなさいだと思います。僕もそう思っています。育ててくれてありがとう。親不孝でごめんなさい。
 今まで恥ずかしくて母の日に何もしてなかったけど、母さんがこんな感じになっちゃったから、思ってることを書きます。
 ありがとうの部分については、僕は子供会でどこかの遊園地に行った時に笑顔でこっちにおいでって言ってたことと、親と竹とんぼをする学校の行事で母さんが遅れて僕が大泣きしたことと、不登校になったときにめちゃくちゃ叱られたことなど、たくさんの思い出に感謝です。僕はあんまり日常の記憶がないんだけれど、場面場面の母さんの顔を思い出します。小さいときはいろいろ旅行も行ったね、ひるぜんとか、姫路とか。場面場面の思い出も大事だけれど、母さんが病気で床に臥せてから、母さんがいろんな家事を一人でしてくれていたんだと感じました。風呂の着替えが廊下に置いてあるのが当たり前で、最近は着替えを出すのが面倒で、着ていた服をそのまま着ることが多いです笑
 6年間も引きこもっちゃったけど、世間体のことなど何も言わず、心配だけはめちゃくちゃしてくれて、具合の悪い鬱の状態を支えてくれたことにも感謝しています。肺気胸と自閉症スペクトラム障害があり、引きこもっているという状態は、もしかしたら自殺してもおかしくなかったかもしれません。死にたいといつも思っていました。この家族じゃなければ、死んでいたかもしれません。何も言わずに、ご飯を食べさせてくれて、見守っていてくれて、ありがとうございました。
 ごめんなさいの部分については、全部ごめんなさいです。学校をやめちゃってごめんなさい。体が弱くてごめんなさい。引きこもっててごめんなさい。何一つ親孝行できなくてごめんなさい。全部ごめんなさいです。
 母さんは家族が一番の人だから、今何が一番辛いかというと、家族の面倒を見れないことが一番つらいんだと思う。でもたぶんみんなそれなりにやっていけるから大丈夫。もし死んじゃったら子供や孫の成長過程が見れないのもつらい原因だと思うけど、それも多分天国から見れるから大丈夫。
 ニーチェの永劫回帰の話をしたことを覚えていますか。僕が「ニーチェって人はこの人生を永遠に何回も繰り返してると仮定して、それを受け入れられる人が超人って言ったんだって」ってデパートの前の車の中で話した時、母さんは「えー、じゃあ母さん超人じゃわ〜」と言っていました。母さんはこの人生を何回繰り返してもいいんだなあ、すごいなあと思いました。でもそれは僕も同じで、次の人生があったとしても、またこの家族と同じ人生を歩んでも構わないです。また母さんの子供がいいな。
 しみったれたこと書いたけど、僕は母さんの病気が治ると信じています。気休めではなく、なぜか本当にそう思います。最近読んだ本では、心が神経を伝って体の運命を決めるので、心を積極的にすれば、病気は治る、と当時は不治の病であった結核を心の力で治した人の本を読みました。僕は治ると信じています。だから前みたいにめそめそ泣くことはなく、最近は普通に過ごしています、治ると思っているので。いつか「あの時はほんまに大変じゃったなあ」と言える日が来ると思っています。なんとなくオプジーボとか温熱療法でよくなる気がする。
 最近は、家族の仲が暖かくなっているのを感じます。母さんも感じてると思う。母さんと父さんが仕事ばかりのときはピリピリしてたけど、最近はあったかい。この前行った温泉旅行も、これまでにないぐらい家族が仲が良かったですね。哲学者や宗教者はみんな、「メメントモリ(死を忘れるな)」と言っていますが、やっぱり死という有限性を意識することで、この限られた人生というものがくっきりして、お互いを大事にしようという気持ちになるんだと思います。あのピリピリした家庭の感じが数十年続いていたら、正直嫌でした。人生の幸せの量は決まっている、という考え方がありますが、「死」を意識すると、よりみんなが幸福になるので、長生きなのが幸福なのではなくて、死の意識から溢れる愛が大事なわけで、寿命はそんなに大事ではないのかなとも思いました。難病にかかっている子供がいるとしたら、その子供は有限性がより意識される分、親に愛される人生を送ると思います。そう考えると人生における幸せの量は本当に決まっているのかなとこの前ふと思いました。
 体が弱くて精神も弱いダメな息子でも、見捨てないでくれて、ありがとうございます。親不孝でごめんなさい。
 これからもよろしくお願いします。
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