宗教とは何か
宗教を「大きな物語」ということがある。相対主義の現代ならではの表現だと思う。宗教は物語である、という表現は確かに消化しやすい。神が世界を作ったとか、阿弥陀仏が助けてくれるとか、そういう「物語」の中に、人生を融解させていく。人生が一つの目的を持った物語になって、紡がれていく。けれど、僕はこの物語という言葉が好きではない。
宗教は物語だ、という言葉には、「結局空想の産物だ」とか「いろいろな物語がある」という意味が含まれていると思う。特に後者のほうが問題。宗教が空想の産物だとかいうのはどうでもいいけれど、服を着替えるみたいに、いろいろな物語の中から、一つを選んで、それにコミットメントしていくのが宗教だと思ってる人が多いんじゃないか。
家族を作って、それなりに儲けて、それなりに楽しくやって、最後に無になる、というのも物語である。けれどもこの物語は自分で選び取ったものではない。最後は永遠の命を得るという物語を持っている人もいるし、輪廻転生するという物語を持っている人もいる。
この前「別に信仰しなくていんじゃない?」と言われた。今の物語、死んだら無になるという物語は自分で選び取ったものではない。周りの環境から押し付けられた、周りの縁によって生起した物語にすぎない。僕は宗教(物語)というものは「出会い」「縁」だと思う。共産主義という物語に会わなければ、共産主義者にはならない。
「宗教」とは向こうからやってくるものなのだ。僕がわざわざ服を選んで着るみたいに、自分でつかみとるものじゃない。向こうからの呼び声があって、それに随順していく。
今僕や君が持っている「死んだら無になる」という物語も、多数の「呼び声」によって紡がれた物語である。死んだら無だよ、死ななきゃ分からない、そんなこと考えるのやめなさい、という呼び声があった。
無始から阿弥陀仏が呼んでいるという「事実」は俺が選ぶわけじゃない。俺が選ぶのじゃないから、絶対なのだ。俺のものじゃないから。
宗教は物語だ、という言葉には、「結局空想の産物だ」とか「いろいろな物語がある」という意味が含まれていると思う。特に後者のほうが問題。宗教が空想の産物だとかいうのはどうでもいいけれど、服を着替えるみたいに、いろいろな物語の中から、一つを選んで、それにコミットメントしていくのが宗教だと思ってる人が多いんじゃないか。
家族を作って、それなりに儲けて、それなりに楽しくやって、最後に無になる、というのも物語である。けれどもこの物語は自分で選び取ったものではない。最後は永遠の命を得るという物語を持っている人もいるし、輪廻転生するという物語を持っている人もいる。
この前「別に信仰しなくていんじゃない?」と言われた。今の物語、死んだら無になるという物語は自分で選び取ったものではない。周りの環境から押し付けられた、周りの縁によって生起した物語にすぎない。僕は宗教(物語)というものは「出会い」「縁」だと思う。共産主義という物語に会わなければ、共産主義者にはならない。
「宗教」とは向こうからやってくるものなのだ。僕がわざわざ服を選んで着るみたいに、自分でつかみとるものじゃない。向こうからの呼び声があって、それに随順していく。
今僕や君が持っている「死んだら無になる」という物語も、多数の「呼び声」によって紡がれた物語である。死んだら無だよ、死ななきゃ分からない、そんなこと考えるのやめなさい、という呼び声があった。
無始から阿弥陀仏が呼んでいるという「事実」は俺が選ぶわけじゃない。俺が選ぶのじゃないから、絶対なのだ。俺のものじゃないから。
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