近代人再考 | 人生入門

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近代人再考

〈蟪蛄(けいこ)春秋(しゅんじゅう)を識(し)らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節(せつ)を知(し)らんや〉


意味:蟪蛄(けいこ)(夏ぜみ・ひぐらし)は(夏だけの命で)、春と秋を知らない。季節(春秋)を知らないのであるから、この虫は、どうして今の朱(しゅ)陽(よう)(夏)が夏であることを知りえようか。


YouTubeで浄土真宗の法話を聞いていたら、素晴らしい寓話が出てきた。セミは夏にミンミン鳴いているが、夏だけの命である。だから、セミは夏のことを知らない。今が夏ということを知らない。季節というものを知らない。

2年前に別のブログに載せた文章を再掲する。

自己作用するものは、全て、二つに分裂する。自分を殴る人間は、殴る自分と、殴られる自分に分裂する。主体と客体に分裂する。
 自我は、基本的には、対象へ向かっているが、時には自己を対象とすることがある。外界を対象とする意識と、意識自身を対象とする意識は、似ているようで全然違う。外界へ向かっている意識は、言わば、「無意識」の自我だ。己の「関心」や「習慣」を通して、外界と交わる。ここには意識の分裂が全く見られない。動物の意識と言ってもいいだろう。
 自分自身を対象とする意識は、自意識とも言われるし、反省とも言われる。「見る」自分と、「見られる」自分が分裂する。前者の自我が、後者の自我を、批評する。
 誠実さや謙虚さを、己の格率として掲げている人を想像してみる。たしかに、「見られる」自分は、「見る」自分の批評精神と、鋭い観察で、改造することができるかもしれない。だが、「見る」精神のほうは、それで誠実だと言えるのだろうか?何者にも審査されていないし、この精神は、他者(見られる自分)を裁いているだけだ。
 では、この見る精神を批評、チェックしてみよう。そうすると、また、見る精神と見られる精神に分裂する。「この批評するだけのオレ=精神は、傲慢ではないか?この批評精神自体も批評してみよう」これは、原理的に無限に続く。無限に分裂する。
 必ず、「見る」精神という逃げ場が、人間の精神の中に潜んでいるのだ。この精神全てを見渡すことはできない。どうしても、主体と客体に分裂してしまう。この逃げ場、秘密基地を持っている人間を、僕は近代人と呼ぼうと思う。僕は近代人である。近代人が極限まで誠実であるためには、この逃げ場すら壊す必要がある。すなわち、自殺すること。
 誠実な近代人は、自己欺瞞をして生きるか、自殺をするかしかない。たぶん、おそらく


 これを2年ぶりに見て、まったく内向的な思考をしているなと思った。確かに「自分」が「自分」を観れば、その見る「自分」は誰なのか?という問題が起きて、無限遡及する。「自分」が「自分」を見ても、「自分」は誰なのか分からない。夏しか知らないセミと同じだ。
 ここに「他者」というファクターを置くことも可能だろうが、僕はそれをしない。それをするのは境界性人格障害が死に物狂いで他人に承認を求めるのと同じだと知っているからだ。「自分」の代わりに「他者」を置くことはしない。確かに「他者」はある程度、春や秋の代わりをすることはできるが。
 僕は、「自分」を見る「自分」というセミを打破するために、「絶対者」つまり「阿弥陀」を置いたんだなと思った。意識的にも無意識的にも、無限遡及を「打ち方やめ(澤木興道)」するにはそうするしかなかったと僕は知っていた。

 さっき、コーラを買いに外に出た。夜空を見た。雄大だった。浄土真宗では仏の光に照らされて本当の自分を知る、とよく言う。「自分」の代わりに「阿弥陀」を置くことは、星空から自分を見ること、これである。青空を見て、自分のちっぽけさを感じたことはないだろうか。宇宙の無限さを考えて、震えたことはないだろうか。しかしここにはパスカルが慄いたような、乾いた沈黙の宇宙ではなく、無限の大慈悲の阿弥陀仏がいるのである。


 

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