41願
俺は結局救われないんだという根本気分があるので、41願のような些末なことが気になる。俺は根本的に救われないという気分が不安な思考を作り上げている。
俺は結局救われるという18願の思考に至れば41願についての不安も取り除かれると思うので41願についてあれこれするより18願を思うほうが先決な気がしてきた。
41願について、合理的な解釈は山ほどある。コウガツインジンレイやほかのお坊さんやヤフー知恵袋など。それらを受け入れられないのは、結局自力の心で解釈してしまうから。
救われない理由を探していて、それを41願に集約させている気がする。俺が救われないのは俺が自力で生きているからだけど、それを41願のせいにしている気がする。
あれこれ経典を解釈しても、一人では限界があるし、何よりも自分が救われないように救われないように読んでしまう。本当は弥陀の慈悲の現れとして読まなければいけないのに。
自力の心が消えて、他力的に、慈悲的に、読めるようになれば、41願も自力聖道門の人を他力に引きいれるための願、というような慈悲深い読み方が自然とできるようになるのだと思う。
俺は結局救われるという18願の思考に至れば41願についての不安も取り除かれると思うので41願についてあれこれするより18願を思うほうが先決な気がしてきた。
41願について、合理的な解釈は山ほどある。コウガツインジンレイやほかのお坊さんやヤフー知恵袋など。それらを受け入れられないのは、結局自力の心で解釈してしまうから。
救われない理由を探していて、それを41願に集約させている気がする。俺が救われないのは俺が自力で生きているからだけど、それを41願のせいにしている気がする。
あれこれ経典を解釈しても、一人では限界があるし、何よりも自分が救われないように救われないように読んでしまう。本当は弥陀の慈悲の現れとして読まなければいけないのに。
自力の心が消えて、他力的に、慈悲的に、読めるようになれば、41願も自力聖道門の人を他力に引きいれるための願、というような慈悲深い読み方が自然とできるようになるのだと思う。
わたしが勧めている念仏は、中国や日本において、慧遠や吉蔵や源信等の智者たちが理解している仏さまの姿や浄土の様子を思い浮かべる念仏(観想念仏)ではなく、また学問を重ねて念仏の意義や功徳を悟ったうえで申す念仏でもありません。ただ極楽に往生するためには、南無阿弥陀仏と申すことです。阿弥陀仏の救いの力に疑いをはさむ余地もなく、必ず往生できるのだという思いを懐いて念仏を申す外には、別にあれこれと修行する方法はありません。
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