第41願について
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字至于得仏諸根闕陋不具足者不取正覚
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。
この願が、1か月以上引っかかっていた。この願を、念仏者は身体障碍にならないと説いてる本があり、だったらば、身体障碍者は往生できないじゃないかと思い、ずっと悩んでいた。いろいろな解釈があったが、僕は香月院深励の解釈が正しいと思う。
まず香月院深励は、元暁の遊心安楽道を引いて、41願から48願の対象を十住以上の菩薩とする。なぜ十住以上の菩薩なのかと言えば、十住以上の菩薩は三悪道(地獄、餓鬼道、修羅界)に堕ちることがないから、浄土を願わずに、浄土の外で衆生済度を行う、いわゆる「浄土嫌い」の菩薩がいるからだ。ちなみに遊心安楽道の著者は元暁かどうか疑われているが、遊心安楽道は法然の選択集にも引用されているように、日本の浄土教に非常に深い縁があるので、偽書かどうかは関係がないと思う。
そして、その十住以上の菩薩を、なんとかして浄土に引き入れるために、名号を聞かせようと起こしたのが、41〜48願の「他方国土の諸菩薩衆」への願だというわけ。41願には阿弥陀仏の名号を聞くと、他方国土の諸菩薩衆は諸根が具足すると書いてある。48願にはただちに無生法忍を得るとも書かれてある。こういった、聖道門の菩薩が欲しがるような願を制定することで、浄土のほうを向いていなかった十住以上の菩薩をも、浄土に引き入れることができる。41願はそういう願らしい。
これで、一応は納得した。
たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。
この願が、1か月以上引っかかっていた。この願を、念仏者は身体障碍にならないと説いてる本があり、だったらば、身体障碍者は往生できないじゃないかと思い、ずっと悩んでいた。いろいろな解釈があったが、僕は香月院深励の解釈が正しいと思う。
まず香月院深励は、元暁の遊心安楽道を引いて、41願から48願の対象を十住以上の菩薩とする。なぜ十住以上の菩薩なのかと言えば、十住以上の菩薩は三悪道(地獄、餓鬼道、修羅界)に堕ちることがないから、浄土を願わずに、浄土の外で衆生済度を行う、いわゆる「浄土嫌い」の菩薩がいるからだ。ちなみに遊心安楽道の著者は元暁かどうか疑われているが、遊心安楽道は法然の選択集にも引用されているように、日本の浄土教に非常に深い縁があるので、偽書かどうかは関係がないと思う。
そして、その十住以上の菩薩を、なんとかして浄土に引き入れるために、名号を聞かせようと起こしたのが、41〜48願の「他方国土の諸菩薩衆」への願だというわけ。41願には阿弥陀仏の名号を聞くと、他方国土の諸菩薩衆は諸根が具足すると書いてある。48願にはただちに無生法忍を得るとも書かれてある。こういった、聖道門の菩薩が欲しがるような願を制定することで、浄土のほうを向いていなかった十住以上の菩薩をも、浄土に引き入れることができる。41願はそういう願らしい。
これで、一応は納得した。
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