人生入門

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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

7月5日

 3年前に仲が良かった29歳の男の人と再会した。この人は自称完全記憶能力者で、3年前は正直疑っていたのだが、ほんとだったっぽい。僕と話した期間なんかせいぜい2ヶ月ぐらいなのに僕との会話をほとんど覚えていた。僕もその人との会話は印象的だったのでだいたい覚えていた。僕が英語が得意なこと、トマスアクィナスの話をしたこと、ゲーデルの不完全性定理について話したことなど。この人の話は脱線しまくるんだけど、脱線先を原文ママで言ってくれるので知識のひけらかしみたいな感じはしない。
 この人は僕を買いかぶっているから少し話しづらい。褒められたら嬉しいけども。
 本当に3年前と何も変わっていなかったから、すごい懐かしい気持ちになった。僕も若返った感覚だった。仲良くしていきたい。
 

 真理と自分を同一化した人間は本当の意味で「原理主義者」となる。ここでいう原理主義者とはテキストを絶対視する者のことではなく、自らがテキストになった人間のことだ。真理は≪他者≫に語らせる他はない。使徒やプラトン、東では孔子の弟子たちのように。自らが真理を語れば、ニーチェのように気が触れてしまう。
 命を削って書いたような哲学書には特殊な形式があるように見える。イエスの聖書、プラトンの対話篇、スピノザのエチカ、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考、ニーチェのツァラトゥストラ。
 登場人物に自説を語らせたり、幾何学的な論証で自説を披露したり。共通して「〇〇曰く」という形式があるように思う。ここには自分で真理を語ることの論理的困難がある。テキストの根拠は何か?〇〇がそう言ったからだ。公理から勝手に導かれただけだ。
 根拠を自分に置くと気がくるってしまうのだと思う。真理とは少し距離をとる必要がある。

7月4日

 昔から、ある変な観念がとりついて頭から離れないことがある。もし僕が時間に「つまずいて」0,001秒ズレてしまったら違う時間軸の自分と重なって体がバラバラになってしまう。時間だけではなくて空間にも同じことが言える。今椅子に座っている僕のY軸がズレれば尻もちをついてしまうだろう。歩道を歩いているときに「今僕の体が少しでも横にズレていたら車にひかれて死んだのかなあ」と考えることがある。自分の体だけがピタっとその空間に1秒でも張り付けば、地球の公転についていけずに吹っ飛ばされるだろう。時間や空間だけではなくて、人間関係にも言える。僕の手が自分の体側ではなくて、友達の顔面に移動しただけで簡単に友情は壊れるだろう。そんなことしなくても、喉から出る空気の震えだけで壊れるかもしれない。何もかも危うい。心臓が数分止まるだけで死んでしまう事実がものすごく怖い。

 スピノザとライプニッツの伝記を読んでる。宮廷人と異端者という対照的な2人が思想上の天才のために交差するのはとても興味深い。ライプニッツが自分の権力欲を抑えてでもスピノザに会いに行こうとしたり、挙句にはこの無神論者を(それとは分からないように)擁護したりするのはよくできたドラマのようだ。表向きは、一方は幼いころから名誉欲に燃え、選帝侯に仕える上流貴族、一方はユダヤ教を破門され、さらに「神学政治論」の刊行によってキリスト教徒からも迫害されるようになった異端者だ。この2人が密約によって共同戦線を張っていたというのは少年心をくすぐられる。この哲学者たちの間の書簡の大部分が失われているのは非常に残念だ。
 哲学者の伝記を読むときにいつも思うことがある。この知の巨人たちも人間なんだなあ。人生に「むなしさ」を感じていたり、共通善という建前のもとに名誉を求めたり。それと同時に、凡人達と比べて、自分にも他人にもバカ正直だなあと思う。僕は哲学にとりつかれてしまったタイプの哲学者が好きだ。ウィトゲンシュタインとかニーチェとか。もちろんスピノザも。この人たちは哲学と生が直結している。素直にかっこいいなあと思う。自分の弱さを直視して、その弱さをどうにかするために一生を捧げる。人間とはこうあるべきだと信じている。
 人間は弱い。こうした天才達も幾多の挫折を乗り越えて、多くは死後に、ようやく評価される。こうした弱さを持っていることが哲学者の条件なのかもしれないが、僕はこの弱さは、人間の普遍的な不幸を純化したものだと思う。これを見えないふりをしている人は、盲目か、傲慢か、恥知らずだ。ネット上ではそういう人が多い(悪口になってしまった)
 社会に出たことがない僕が言えたことじゃないが、正直に、真っすぐに、純真に生きてる人の周りには人が集まる。カリスマってそういうことだと思う。
 一方で、「文学に魅せられてしまった」「哲学にとりつかれてしまった」という言葉は嘘くさく感じてしまう。偽物の人間が多すぎるからだ。だらしがない生き方だなあと思う。(また悪口になってしまった)

7月3日

 3時に起きた。ヘーゲル哲学、プラトン哲学、英語の授業を聞いて仏教の本を読んだ。日本仏教の講義をとったんだけれど、予備知識がなさ過ぎて読めないので易しい入門書を買った。仏教はもともと興味があって、主に原始仏教の本を一時期読んでた。日本仏教は邪道みたいな勝手なイメージがあってあまり勉強しなかった。吉本隆明の親鸞論ぐらい。でも当たり前だけど勉強したら身になることがたくさんあるんだなって思った。でも本格的に勉強する気にはならないなあ。漢字が難しい。仏教には真理がたくさんあるんだろうけど、出てくる数字が適当だから全部胡散臭く見える。

 人間の不幸は無限の可能性から1つの可能性をつかみ取ることしかできないということにあるんだろうなあ。
 むかし、夢だった美容師にようやくなれたって女の子と付き合ったことがあるけれど、幸せそうじゃなかった。むしろ不幸そうだった。こんなはずじゃなかった。
 今日、通信制大学に通いながらネットばっかりしてる女の子が「最悪の人生を送ってる気がする」って言ってた。
 人間はいくつもあった選択肢から一つを選ぶことしかできない。不幸だ。
 だからスピノザの「神からすべてが必然的に流出する」という哲学や、ライプニッツの「神は全ての可能的世界から最善のものを選択した」という哲学が救いになる。
 僕は普通の日本人のレールから外れちゃったけど、これはこれでよかったのかな。今までの一本道を悲しむよりは、全てが必然的だったと考える思想のほうが「強い」と思う。
 
 

7月2日

 この前「哲学を学ぶことは無意味 哲学を"する"ことが大事」って言ってた人間がいた。傲慢だなあって思う。過去の数学を学ばずに引きこもって数学を研究して、数十年後に大発見だ!って息巻いて持ってきたのが二次関数の解き方だったって話思い出した。もちろん自分で考えるのも大事だと思うけれど、過去の偉人と対話をしなけりゃ問題意識が幼稚なものにしか仕上がらないと思う。自分の力だけで思考しようって傲慢すぎる。僕は今のところ楽しいから学んでるだけで自分で考えようとか思ってないけどね。あんまりよくないのかな。
 って思いながらドイツ観念論の講義を聞いてギリシャの歴史の教科書を読んでソフィストとソクラテスについての講義を聞いた。疲れた…。

7月1日

 現代思想系の人間(ツイッタラーを念頭に置いてる)の言説に「大きな物語の失墜」という表現がよく出てくる。例えばこういう風に。「大きな物語、即ち宗教や共同体の権威が失墜し、現代はオタク文化や核家族などの小さな物語が乱立するようになった。」
 僕はこういう言説が大嫌いだ。なぜ大嫌いかというと、昔の自分を思い出すから。「大きな物語の失墜」というペダンチックな言表を振りかざして救いを見つけた気になっていた。この表現には自己愛、自己正当化、諦念といった辛気臭い香りが漂う。「大きな物語は失われてしまった。ああ、昔はよかった。現代は大きな物語の危険性、欺瞞性が暴露されてしまったのでもうあの頃に戻ることはできない。」
 過去にユートピアを求める思想はいつの時代にもある。例えば古代ギリシャでは失われた「金色の時代」を夢想していた。他にも中国では「周」の政治を理想化したり、近代では動物の世界に思いをはせたりした。僕はくだらないと思う。こんなのは全部、創世記のバリエーションに過ぎない。つまり「アダムが禁断の果実を食べなければよかった。」
 大きな物語(僕はこの表現が胡散臭いと思うのだが)の一番の必要性は死を人生の意味体系に組み込むことだと思う。確かに現代人は死を飲み込むことができない。忘却しようとさえする。
 しかし、現代以前の人達が宗教にどっぷりつかって夢想的な人生を送っていたと考えるのはいかがなものかと思う。この前ブログで紹介したパスカルの言葉。「人間とは一体なんという怪物だろう!なんという新奇なもの、なんという妖怪、なんという混沌、なんという矛盾の主体、なんという驚異であろう!あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず、真理の保管者であり、不確実と誤謬の掃きだめ。宇宙の栄光であり、屑」だから、神に救いを求めた。古代ギリシャでは多神教が信じられていたが、戦争の極限状態では無神論者が多発したと教科書で読んだ。「お国のために」と戦地に向かう息子を泣きながら送り出す母親の話も学校で習った。人間がいつの時代も不幸なのは変わらない。大きな物語が有効に働いていたという証拠もない。民衆の言葉は残っていない。
 僕が知らないだけで、民衆は宗教によって救われていたのかもしれない。死を上手く飲み込めたのかもしれない。そう考えても、無意識に根底的な不安が広がっているのには変わりない。「死後の世界はある」「死は安らぎだ」などと口に出さなければならない動機を考えなければならないと思う。不安だから、わざわざ口に出す。確認する。
 「大きな物語がなくなってしまった。俺たちは不幸だ」と自分の不幸を特別視して肯定するのは幼稚だと僕は思う。

 7月になった。テスト勉強をしなきゃ…。
 今日は哲学の授業2つと英語の授業を聞いて、精神病についてのテキストを読む。勉強は好きなんだけれど本を読みたいからめんどくさいなあ。あ〜〜〜〜〜
 頑張ります。

勉強

近代哲学授業1時間
教科書3時間
古代哲学授業1時間
教科書3時間
英語授業1時間
英語音読30分

エチカ 分からないところ

 定理21〜23がよくわからない。21の証明も分からないし何を言っているのかもよくわからないけれど、別の本で補完してこういうことかなって思ったのをまとめる。誰か教えてほしい。読んでも分からないから読み飛ばしてる。

 定理21は直接無限様態について書かれている。この直接無限様態が具体的に何を指すのかは「エチカ」では明言されていない。書簡を参照にすると永遠無限の物理法則にあたるらしい。だから定理21は「神から永遠無限の物理法則が流出する」となる
 定理22は間接無限様態について書かれている。この間接無限様態も具体的に何を指すのかが分からない。ほかの本を参照すると「宇宙全体」を指しているらしい。だから定理22は「神から永遠無限の宇宙が流出する」となる
 定理23は何を言ってるのかサッパリ分からない。世界に出現するものは上の2つの定理に基づいて出現するってことなのかな。

 第二部の共通概念というのもよくわからない。理性によって把握するものだから物理学的なものかなって思ったけどそう単純じゃないらしい。身体と外部の物体の共通するものが共通概念らしい。身体(A,B)と物体(B,C)がある。身体の変様は(A,B,C)となる。このうちのBは身体だけで覚知できるから、Bは外部の物体のノイズを孕んでいない十全な観念ってことだと思う。でも具体的にどんなものなのかサッパリ分からない。

 全然違うこと言ってたら恥ずかしいけど誰か教えてください。
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