て
真理と自分を同一化した人間は本当の意味で「原理主義者」となる。ここでいう原理主義者とはテキストを絶対視する者のことではなく、自らがテキストになった人間のことだ。真理は≪他者≫に語らせる他はない。使徒やプラトン、東では孔子の弟子たちのように。自らが真理を語れば、ニーチェのように気が触れてしまう。
命を削って書いたような哲学書には特殊な形式があるように見える。イエスの聖書、プラトンの対話篇、スピノザのエチカ、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考、ニーチェのツァラトゥストラ。
登場人物に自説を語らせたり、幾何学的な論証で自説を披露したり。共通して「〇〇曰く」という形式があるように思う。ここには自分で真理を語ることの論理的困難がある。テキストの根拠は何か?〇〇がそう言ったからだ。公理から勝手に導かれただけだ。
根拠を自分に置くと気がくるってしまうのだと思う。真理とは少し距離をとる必要がある。
命を削って書いたような哲学書には特殊な形式があるように見える。イエスの聖書、プラトンの対話篇、スピノザのエチカ、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考、ニーチェのツァラトゥストラ。
登場人物に自説を語らせたり、幾何学的な論証で自説を披露したり。共通して「〇〇曰く」という形式があるように思う。ここには自分で真理を語ることの論理的困難がある。テキストの根拠は何か?〇〇がそう言ったからだ。公理から勝手に導かれただけだ。
根拠を自分に置くと気がくるってしまうのだと思う。真理とは少し距離をとる必要がある。
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