あ
スピノザとライプニッツの伝記を読んでる。宮廷人と異端者という対照的な2人が思想上の天才のために交差するのはとても興味深い。ライプニッツが自分の権力欲を抑えてでもスピノザに会いに行こうとしたり、挙句にはこの無神論者を(それとは分からないように)擁護したりするのはよくできたドラマのようだ。表向きは、一方は幼いころから名誉欲に燃え、選帝侯に仕える上流貴族、一方はユダヤ教を破門され、さらに「神学政治論」の刊行によってキリスト教徒からも迫害されるようになった異端者だ。この2人が密約によって共同戦線を張っていたというのは少年心をくすぐられる。この哲学者たちの間の書簡の大部分が失われているのは非常に残念だ。
哲学者の伝記を読むときにいつも思うことがある。この知の巨人たちも人間なんだなあ。人生に「むなしさ」を感じていたり、共通善という建前のもとに名誉を求めたり。それと同時に、凡人達と比べて、自分にも他人にもバカ正直だなあと思う。僕は哲学にとりつかれてしまったタイプの哲学者が好きだ。ウィトゲンシュタインとかニーチェとか。もちろんスピノザも。この人たちは哲学と生が直結している。素直にかっこいいなあと思う。自分の弱さを直視して、その弱さをどうにかするために一生を捧げる。人間とはこうあるべきだと信じている。
人間は弱い。こうした天才達も幾多の挫折を乗り越えて、多くは死後に、ようやく評価される。こうした弱さを持っていることが哲学者の条件なのかもしれないが、僕はこの弱さは、人間の普遍的な不幸を純化したものだと思う。これを見えないふりをしている人は、盲目か、傲慢か、恥知らずだ。ネット上ではそういう人が多い(悪口になってしまった)
社会に出たことがない僕が言えたことじゃないが、正直に、真っすぐに、純真に生きてる人の周りには人が集まる。カリスマってそういうことだと思う。
一方で、「文学に魅せられてしまった」「哲学にとりつかれてしまった」という言葉は嘘くさく感じてしまう。偽物の人間が多すぎるからだ。だらしがない生き方だなあと思う。(また悪口になってしまった)
哲学者の伝記を読むときにいつも思うことがある。この知の巨人たちも人間なんだなあ。人生に「むなしさ」を感じていたり、共通善という建前のもとに名誉を求めたり。それと同時に、凡人達と比べて、自分にも他人にもバカ正直だなあと思う。僕は哲学にとりつかれてしまったタイプの哲学者が好きだ。ウィトゲンシュタインとかニーチェとか。もちろんスピノザも。この人たちは哲学と生が直結している。素直にかっこいいなあと思う。自分の弱さを直視して、その弱さをどうにかするために一生を捧げる。人間とはこうあるべきだと信じている。
人間は弱い。こうした天才達も幾多の挫折を乗り越えて、多くは死後に、ようやく評価される。こうした弱さを持っていることが哲学者の条件なのかもしれないが、僕はこの弱さは、人間の普遍的な不幸を純化したものだと思う。これを見えないふりをしている人は、盲目か、傲慢か、恥知らずだ。ネット上ではそういう人が多い(悪口になってしまった)
社会に出たことがない僕が言えたことじゃないが、正直に、真っすぐに、純真に生きてる人の周りには人が集まる。カリスマってそういうことだと思う。
一方で、「文学に魅せられてしまった」「哲学にとりつかれてしまった」という言葉は嘘くさく感じてしまう。偽物の人間が多すぎるからだ。だらしがない生き方だなあと思う。(また悪口になってしまった)
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