7月1日 | 人生入門

人生入門

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生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

7月1日

 現代思想系の人間(ツイッタラーを念頭に置いてる)の言説に「大きな物語の失墜」という表現がよく出てくる。例えばこういう風に。「大きな物語、即ち宗教や共同体の権威が失墜し、現代はオタク文化や核家族などの小さな物語が乱立するようになった。」
 僕はこういう言説が大嫌いだ。なぜ大嫌いかというと、昔の自分を思い出すから。「大きな物語の失墜」というペダンチックな言表を振りかざして救いを見つけた気になっていた。この表現には自己愛、自己正当化、諦念といった辛気臭い香りが漂う。「大きな物語は失われてしまった。ああ、昔はよかった。現代は大きな物語の危険性、欺瞞性が暴露されてしまったのでもうあの頃に戻ることはできない。」
 過去にユートピアを求める思想はいつの時代にもある。例えば古代ギリシャでは失われた「金色の時代」を夢想していた。他にも中国では「周」の政治を理想化したり、近代では動物の世界に思いをはせたりした。僕はくだらないと思う。こんなのは全部、創世記のバリエーションに過ぎない。つまり「アダムが禁断の果実を食べなければよかった。」
 大きな物語(僕はこの表現が胡散臭いと思うのだが)の一番の必要性は死を人生の意味体系に組み込むことだと思う。確かに現代人は死を飲み込むことができない。忘却しようとさえする。
 しかし、現代以前の人達が宗教にどっぷりつかって夢想的な人生を送っていたと考えるのはいかがなものかと思う。この前ブログで紹介したパスカルの言葉。「人間とは一体なんという怪物だろう!なんという新奇なもの、なんという妖怪、なんという混沌、なんという矛盾の主体、なんという驚異であろう!あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず、真理の保管者であり、不確実と誤謬の掃きだめ。宇宙の栄光であり、屑」だから、神に救いを求めた。古代ギリシャでは多神教が信じられていたが、戦争の極限状態では無神論者が多発したと教科書で読んだ。「お国のために」と戦地に向かう息子を泣きながら送り出す母親の話も学校で習った。人間がいつの時代も不幸なのは変わらない。大きな物語が有効に働いていたという証拠もない。民衆の言葉は残っていない。
 僕が知らないだけで、民衆は宗教によって救われていたのかもしれない。死を上手く飲み込めたのかもしれない。そう考えても、無意識に根底的な不安が広がっているのには変わりない。「死後の世界はある」「死は安らぎだ」などと口に出さなければならない動機を考えなければならないと思う。不安だから、わざわざ口に出す。確認する。
 「大きな物語がなくなってしまった。俺たちは不幸だ」と自分の不幸を特別視して肯定するのは幼稚だと僕は思う。

 7月になった。テスト勉強をしなきゃ…。
 今日は哲学の授業2つと英語の授業を聞いて、精神病についてのテキストを読む。勉強は好きなんだけれど本を読みたいからめんどくさいなあ。あ〜〜〜〜〜
 頑張ります。

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