無神論
ニーチェ、バタイユ、シオラン、といった過激な無神論者の著作は、なぜか濃密な宗教臭さがある。さっきあげた3人ともたびたび神に言及しているし、結局神の重力からは逃れられていない気がする。
僕は無神論者だったが、今はよくわからない。無神論、虚無主義を突き進めると、汎神論や絶対主義に傾く、感じがする。少なくとも僕はそうなっている。
善も悪もない。無があるだけ。「絶対的」に虚無である。そういうところから宗教というのは芽生えるんじゃないか。絶対的な否定が、絶対的な肯定に反転する。善も悪もない。「だからこそ」救済がある。
僕は無神論者だったが、今はよくわからない。無神論、虚無主義を突き進めると、汎神論や絶対主義に傾く、感じがする。少なくとも僕はそうなっている。
本当 の 宗教 という のは、 神 も 仏 も ない のかと 思っ た ところ から 出発 する もの じゃ ない か( 中略) 私 に 子供 が い て、 それ が 癌 に かかっ た と する と「 神様、 お願い し ます、 助け て ください」 と、 親 だ から 当然 祈り ます。 にも かかわら ず 死ん で しまっ たら、 奇跡 も 何 も ない じゃ ない か、 神 も 仏 も ない じゃ ない かと 思う でしょ う。 でも、 そういうところ から 本当に 宗教 が 始まる ん では ない でしょ う か」
善も悪もない。無があるだけ。「絶対的」に虚無である。そういうところから宗教というのは芽生えるんじゃないか。絶対的な否定が、絶対的な肯定に反転する。善も悪もない。「だからこそ」救済がある。
阿弥陀如来の本願には、老人と若者、善人と悪人というわけへだてはありません。ただその本願の救いをはからいなくお任せするという信心が肝要であると知るべきです。本願が老少、善悪をへだてたまわないということは、深く重い罪悪をもち、はげしい煩悩をかかえて生きる人を、一人残らず救うためにおこされた誓願であらせられるからです。
ですから本願を信じたうえは、往生のために他のどのような善行も必要としません。如来よりたまわった本願の念仏にまさるほどの善はないからです。またどんな悪も恐れる必要はありません。阿弥陀仏の本願の救いをさまたげるほどの悪はないからである、と仰せられました。