いつ死んでもいいように
自分はもう一生、ものを欲しがらぬ。頭を下げて人にものをくれとは言わぬ。あるいはまた人の欲しがるものは惜しがらぬ。食わしてくれれば食う、食えねば食わぬ。生きられるだけ生きる、死なんならんときは死ぬと、心がハッキリ決まった。このとき広々とした天空を仰いだような、何の引っかかりもない人生がそこに展開した。これほどの喜びはなかった。——————沢木興道
親に「いつ死んでもいいような人生にしたい」と言ったら「そんな悲しいこと言わないで」と言われたことがある。多分親は僕が自暴自棄になってるんだと思ったんだと思うけど、そういう意味ではない。未練たらたらの失恋みたいな死に方はしたくないということ、そのためには、普段の生きる心構えが大切だということ、人間はいつ死ぬか分からないので死を覚悟した人生を掴むということ、それが伝えたかった。
この世に心残りを残して死んだ人は「あの人は成仏できないな」と言われる。心残しをすると、仏になれない。「生きられるだけ生きる、死なんならんときは死ぬと、心がハッキリ決まった」になると、死んだときに、仏になる。金や家族、名誉への執着が残っていると、輪廻転生から逃れられない。
坐禅、念仏。僕は坐禅と念仏というのは通底しているものだと思う。はっきりと信心決定して、死後は浄土へ行くと、心がハッキリ決まる。そうすると、いつ死んでもいい人生が開ける。いつ死んでもいい人は、ジタバタしない。焦らない。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ————良寛
ある日、知人らとともに船に乗った庄松は、ひどい暴風雨に見舞われました。生きるか死ぬかという緊急事態ですが、庄松一人だけがいびきをかいて寝ていました。知人たちが庄松に「一大事だぞ」といって起こすと、彼は平然と「ここはまだ娑婆か?」と返答しました。
これは阿弥陀仏に帰依した庄松が、死ぬと同時に極楽に迎え取られるという世界に安住していたことを示しています。
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