いのち
「好きな漢字はなに?」と聞かれたので「命」と答えた。本当は平仮名の「いのち」が好きだ。僕の短歌や詩にはよく「いのち」という言葉が出てくるが、田舎生まれの僕の大地性が、無意識の中にあるのだと思う。
「いのち」は丸っこくてかわいい。散歩をすると、何を見ても「あ、いのちだ」と思う。さっきは鳥の編隊を見た。ぴーぴーと鳴いてる声を聞いてもいのちだと思う。冬だから、神社の桜の木が全て枯れていたけれど、春になったら満開のいのちを咲かせるだろう。不思議だ。種があるのに、手品じゃない。
詩人みたいな人が今年の抱負に「花の名前を覚える」と書いていた。いのちって、見るだけで声なき声がするのに、名前を覚えるなんてナンセンスだと思った。いのちの声を無視して、言葉の世界に生きてるんだろう。いのちを言葉に閉じ込めるのはナンセンスだ。
生き物ってなんで生きてるんだろう、と考えると、やはり「阿弥陀仏」が生かしているのだと思う。阿弥陀仏は「無限のいのち」という意味だけれど無限のいのちが個々の生物に宿っている。それをお釈迦様は「全ての衆生には仏性がある」と言ったのだろう。みんな、無限のいのちという海の中に暮らしている。
お釈迦さまは、鳥がミミズを食べているのを見た時に、痛切な悲哀を感じて出家したという。いのちには「悲哀」がある。悲哀の中で「頑張って生きている」。花でも鳥でも猫でもいいけれど、いのちが「頑張って生きている」姿を見ると、自分も頑張ろうと思える。
母親は癌で死んだし、友達は電車に飛び込んで死んだ。生と死は反対概念だけれど「いのち」は生と死の両方を含む。花びらは散っても、花は散らない。
飼い猫を抱くと、心臓の音が伝わってくる。生きてる。孤独感で冷え切った心が、あたたかくなる。孤独の氷が溶けていく。
散歩をすると、いのちのオーケストラがある。鳥が鳴いて、野良猫が餌を探していて、草花が道路の端に生きていて、地元の老人が歩いていて、太陽はみんなを照らしていて、僕がいる。
「いのち」は丸っこくてかわいい。散歩をすると、何を見ても「あ、いのちだ」と思う。さっきは鳥の編隊を見た。ぴーぴーと鳴いてる声を聞いてもいのちだと思う。冬だから、神社の桜の木が全て枯れていたけれど、春になったら満開のいのちを咲かせるだろう。不思議だ。種があるのに、手品じゃない。
詩人みたいな人が今年の抱負に「花の名前を覚える」と書いていた。いのちって、見るだけで声なき声がするのに、名前を覚えるなんてナンセンスだと思った。いのちの声を無視して、言葉の世界に生きてるんだろう。いのちを言葉に閉じ込めるのはナンセンスだ。
生き物ってなんで生きてるんだろう、と考えると、やはり「阿弥陀仏」が生かしているのだと思う。阿弥陀仏は「無限のいのち」という意味だけれど無限のいのちが個々の生物に宿っている。それをお釈迦様は「全ての衆生には仏性がある」と言ったのだろう。みんな、無限のいのちという海の中に暮らしている。
お釈迦さまは、鳥がミミズを食べているのを見た時に、痛切な悲哀を感じて出家したという。いのちには「悲哀」がある。悲哀の中で「頑張って生きている」。花でも鳥でも猫でもいいけれど、いのちが「頑張って生きている」姿を見ると、自分も頑張ろうと思える。
母親は癌で死んだし、友達は電車に飛び込んで死んだ。生と死は反対概念だけれど「いのち」は生と死の両方を含む。花びらは散っても、花は散らない。
飼い猫を抱くと、心臓の音が伝わってくる。生きてる。孤独感で冷え切った心が、あたたかくなる。孤独の氷が溶けていく。
散歩をすると、いのちのオーケストラがある。鳥が鳴いて、野良猫が餌を探していて、草花が道路の端に生きていて、地元の老人が歩いていて、太陽はみんなを照らしていて、僕がいる。
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