幸福論 穴
恋人の友達に、起業や投資をしてかなり稼いでいる人がいるのだが、その人は僕のことが嫌いらしい。彼女曰く「価値観が合わない」らしい。僕の価値観は完全に仏教に影響されていて、恋人の友達の価値観は資本主義に影響されている。「正しい」価値観などあるのだろうか?「人それぞれ」ではないのだろうか?物事を図るのには、「モノサシ」が必要である。それぞれの価値観を測るモノサシは存在するのだろうか?僕は、それは「幸福」であると思う。
「すべての人は幸福を求める。そこに例外はない。考えられる手段をさまざま用いて、人はこの目標を達成しようとする。(…)幸福こそがすべての人の行動の動機となっている。首つりをしようとしている人も含めて。————パスカル」
先ほど僕の価値観は仏教に影響されていると書いたが、そもそも仏教はいわゆる「価値観」ではない。世間で言う「思想」や「価値観」などは、仏教用語では「見(けん)」と呼ばれ、争いを生むものだとして、捨て去るべきものだとみなされている。では仏教は、なにをどうやって測っているのだろうか?それは「幸福」を「巧拙」で測っている。つまり、その「方法」は、幸福になる方法として、「上手」か「下手」か、という観点から、物事を見る。
さて、では「幸福」とは何だろうか?「満足」と言い換えれば、大多数の人の同意を得られるんじゃないだろうか。そして大多数の人の「満足」のイメージは、欲望が満たされるとき、例えば喉が渇いた時に水を飲む、といったようなイメージだと思う。
仏教では欲望のことを「煩悩」という。僕は、欲望という言葉は、「問題」と言い換えることができるのではないかと思っている。「僕は恋人が欲しい、でもいない、だから問題だ。」「母親がうるさい、でもやめてくれない、だから問題だ」「もっといい顔に生まれたかった、けれど不細工だ、だから問題だ」「もっとお金が欲しい、けれど今はない、だから問題だ。」
もっとラディカルな言葉を使えば、「欠落」と言ってもいいかもしれない。英語のwantという単語には「欲求」という意味と「欠乏」という意味がある。欲望というのは、心から湧き上がってくるエネルギーのようなものではなく、心に穴があいている状態なのだ。厳密に言えば何に穴が空いているのか?「現在」に穴が空いている。
「おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来によって占められている のを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは 未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。 過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、 決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる 準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。—————パスカル」
「現在」に「穴」が穿たれた状態。「〜をすれば幸せになるだろう」と「〜な時は良かった」という穴が欲望(問題)である。しかし僕たちは「今」生きている。どれだけ思考を過去に働かせても、僕たちは「今」思考を働かせているのだし、どれだけイメージしても予測しても、「未来」は、永遠に「未」だ「来」ない。子供の頃は幸せだった、整形すれば幸福になるだろう、いいパートナーが見つかれば幸福になるだろう、もっと金があれば幸福になるだろう、と「今」考えている。
パスカルの言うように、人間は、未来と過去を考え続けるというように進化してしまった。それは恐らく、過去の経験を生かすようなホモサピエンスが原始時代は生き残りやすかったのだろうし、未来の計画を立てるようなホモサピエンスが生き残りやすかったのだろうと思う。けれど今の時代、そしてブッダの時代に、そのようなことを、一日中考え続けるのはナンセンスだ。最近読んだ本に「What's wrong with right now: If you don't think about it」という本があるのだが、その通りで、「今ここ」あなたがこの文章を読んでいる今、何も考えなければ、何か問題があるだろうか?何もないだろう。欲望、問題というのは幻想である。
ブッダは、「今ここ」にいることを「sati」と呼んだ。「気づき」ぐらいの意味だ。ゴータマ・シッダールタが史実的に何を言ったのかは未だに分からないらしいが(輪廻を語ったかどうかすら分からない)この「sati」を語ったということだけは確実らしい。何に気づくのか?なんでもいい。クリシュナムルティは「受動的、全的な気づき」と言っている。「今」に穴を穿つのは主に「思考」なので、主に思考に気づきを向ければいい。What's wrong with right now?
今でなければ、いつ幸せになるのか?次に恋人とデートするとき?それまではずっと心に穴が空いている。
人間はみんな惨めで不幸で、どうしようもない。人間には、この「穴」がふさがる直前に、ドーパミンが大量に放出され、手に入れば快楽がおさまるという仕組みがある。喉から手が出るほど欲しかったものを手に入れた途端、どうでもよくなったという経験はないだろうか。恋人ができた瞬間、整形をした瞬間、欲しい本が手に入った瞬間、受験に受かった瞬間、物凄いドーパミンが出るが、すぐにおさまり、人間は次にドーパミンを出す行動をする準備をしている。全ては依存症といってもいいかもしれない。買い物依存症も、ギャンブル依存症も、犯罪依存症も、恋愛依存症も、全て、ドーパミンが強く関与している。僕らの惨めな「欲求」というのも全て依存症ではないだろうか?僕は勉強依存、読書依存だ。人間は穴だらけの存在だ。
人間には、二つの生き方があるといって良いかもしれない。底のない穴にドーパミンを入れ続ける生き方。そして穴そのものをなくしてしまう生き方。どちらの方が抜本的で「上手い」生き方だろうか?僕は後者だと思う。
「すべての人は幸福を求める。そこに例外はない。考えられる手段をさまざま用いて、人はこの目標を達成しようとする。(…)幸福こそがすべての人の行動の動機となっている。首つりをしようとしている人も含めて。————パスカル」
先ほど僕の価値観は仏教に影響されていると書いたが、そもそも仏教はいわゆる「価値観」ではない。世間で言う「思想」や「価値観」などは、仏教用語では「見(けん)」と呼ばれ、争いを生むものだとして、捨て去るべきものだとみなされている。では仏教は、なにをどうやって測っているのだろうか?それは「幸福」を「巧拙」で測っている。つまり、その「方法」は、幸福になる方法として、「上手」か「下手」か、という観点から、物事を見る。
さて、では「幸福」とは何だろうか?「満足」と言い換えれば、大多数の人の同意を得られるんじゃないだろうか。そして大多数の人の「満足」のイメージは、欲望が満たされるとき、例えば喉が渇いた時に水を飲む、といったようなイメージだと思う。
仏教では欲望のことを「煩悩」という。僕は、欲望という言葉は、「問題」と言い換えることができるのではないかと思っている。「僕は恋人が欲しい、でもいない、だから問題だ。」「母親がうるさい、でもやめてくれない、だから問題だ」「もっといい顔に生まれたかった、けれど不細工だ、だから問題だ」「もっとお金が欲しい、けれど今はない、だから問題だ。」
もっとラディカルな言葉を使えば、「欠落」と言ってもいいかもしれない。英語のwantという単語には「欲求」という意味と「欠乏」という意味がある。欲望というのは、心から湧き上がってくるエネルギーのようなものではなく、心に穴があいている状態なのだ。厳密に言えば何に穴が空いているのか?「現在」に穴が空いている。
「おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来によって占められている のを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは 未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。 過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、 決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる 準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。—————パスカル」
「現在」に「穴」が穿たれた状態。「〜をすれば幸せになるだろう」と「〜な時は良かった」という穴が欲望(問題)である。しかし僕たちは「今」生きている。どれだけ思考を過去に働かせても、僕たちは「今」思考を働かせているのだし、どれだけイメージしても予測しても、「未来」は、永遠に「未」だ「来」ない。子供の頃は幸せだった、整形すれば幸福になるだろう、いいパートナーが見つかれば幸福になるだろう、もっと金があれば幸福になるだろう、と「今」考えている。
パスカルの言うように、人間は、未来と過去を考え続けるというように進化してしまった。それは恐らく、過去の経験を生かすようなホモサピエンスが原始時代は生き残りやすかったのだろうし、未来の計画を立てるようなホモサピエンスが生き残りやすかったのだろうと思う。けれど今の時代、そしてブッダの時代に、そのようなことを、一日中考え続けるのはナンセンスだ。最近読んだ本に「What's wrong with right now: If you don't think about it」という本があるのだが、その通りで、「今ここ」あなたがこの文章を読んでいる今、何も考えなければ、何か問題があるだろうか?何もないだろう。欲望、問題というのは幻想である。
ブッダは、「今ここ」にいることを「sati」と呼んだ。「気づき」ぐらいの意味だ。ゴータマ・シッダールタが史実的に何を言ったのかは未だに分からないらしいが(輪廻を語ったかどうかすら分からない)この「sati」を語ったということだけは確実らしい。何に気づくのか?なんでもいい。クリシュナムルティは「受動的、全的な気づき」と言っている。「今」に穴を穿つのは主に「思考」なので、主に思考に気づきを向ければいい。What's wrong with right now?
今でなければ、いつ幸せになるのか?次に恋人とデートするとき?それまではずっと心に穴が空いている。
人間はみんな惨めで不幸で、どうしようもない。人間には、この「穴」がふさがる直前に、ドーパミンが大量に放出され、手に入れば快楽がおさまるという仕組みがある。喉から手が出るほど欲しかったものを手に入れた途端、どうでもよくなったという経験はないだろうか。恋人ができた瞬間、整形をした瞬間、欲しい本が手に入った瞬間、受験に受かった瞬間、物凄いドーパミンが出るが、すぐにおさまり、人間は次にドーパミンを出す行動をする準備をしている。全ては依存症といってもいいかもしれない。買い物依存症も、ギャンブル依存症も、犯罪依存症も、恋愛依存症も、全て、ドーパミンが強く関与している。僕らの惨めな「欲求」というのも全て依存症ではないだろうか?僕は勉強依存、読書依存だ。人間は穴だらけの存在だ。
人間には、二つの生き方があるといって良いかもしれない。底のない穴にドーパミンを入れ続ける生き方。そして穴そのものをなくしてしまう生き方。どちらの方が抜本的で「上手い」生き方だろうか?僕は後者だと思う。
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