踊る阿呆に見る阿呆
中学生ぐらいの頃、踊る阿呆に見る阿呆、というフレーズを聞いて衝撃を受けた。僕は見る阿呆そのものだったから。
この歌は、冷笑主義を皮肉っている。最近どこかで「プレイヤーたれ」という言葉を見たが、このゲームの外に脱出することはできず、ただみな各々の人生を演じるしかないのだと思う。ヒンドゥー哲学では、この世は全てシヴァ神のダンスだと言われるが、まさにその通りで、みな神の上で踊り続けるしかない。
見る阿呆というのは、冷笑家のことだ。僕は冷笑というと、芥川龍之介やパスカルのようなモラリストを思い浮かべる。ただ、冷笑家は本当に世界を超越しているわけではないので、他人を嘲笑しながら、自分も七転八倒するという喜劇を送らざるを得ない。
見る賢者というのは存在するのか?僕は存在すると思う。賢者とモラリストの言葉は、一見かなり似ている。例えばクリシュナムルティは、息子が死んで泣いている母親に「あなたはただ息子から得られる喜びがなくなったから泣いているのだ」みたいなことを言っている。全く同じことをロシュフコーも言っている。ロシュフコーはさらに人間は自己愛でしか動かないだとか、群れる奴は醜いだとか言っているが、これも全てブッダが言っていることだ。
冷笑家と覚者は、世界=ゲームから超越しているという点で確かに似ている。けれど、冷笑家が理性を使って他人を嘲笑うのに対して、覚者は自己のマインドに気づき続けることによって、人間の本質を知る。人間の醜い本質を知った者は、熱い石炭を投げ捨てるように、自分の心も捨てる。つまり死ぬ。
冷笑家は生きていて、覚者は死んでいる。一度死んだものだけが、「見る賢者」になることができる。
この歌は、冷笑主義を皮肉っている。最近どこかで「プレイヤーたれ」という言葉を見たが、このゲームの外に脱出することはできず、ただみな各々の人生を演じるしかないのだと思う。ヒンドゥー哲学では、この世は全てシヴァ神のダンスだと言われるが、まさにその通りで、みな神の上で踊り続けるしかない。
見る阿呆というのは、冷笑家のことだ。僕は冷笑というと、芥川龍之介やパスカルのようなモラリストを思い浮かべる。ただ、冷笑家は本当に世界を超越しているわけではないので、他人を嘲笑しながら、自分も七転八倒するという喜劇を送らざるを得ない。
見る賢者というのは存在するのか?僕は存在すると思う。賢者とモラリストの言葉は、一見かなり似ている。例えばクリシュナムルティは、息子が死んで泣いている母親に「あなたはただ息子から得られる喜びがなくなったから泣いているのだ」みたいなことを言っている。全く同じことをロシュフコーも言っている。ロシュフコーはさらに人間は自己愛でしか動かないだとか、群れる奴は醜いだとか言っているが、これも全てブッダが言っていることだ。
冷笑家と覚者は、世界=ゲームから超越しているという点で確かに似ている。けれど、冷笑家が理性を使って他人を嘲笑うのに対して、覚者は自己のマインドに気づき続けることによって、人間の本質を知る。人間の醜い本質を知った者は、熱い石炭を投げ捨てるように、自分の心も捨てる。つまり死ぬ。
冷笑家は生きていて、覚者は死んでいる。一度死んだものだけが、「見る賢者」になることができる。
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