真実はいつも一つ
いうまでもなく、人生で一番重要なのは、神に出会うことである。神というのは「永遠の生」という言葉の別名で、死を癒す妙薬である。
中学生の頃、宗教の勉強をした帰り道、友達にこう言ったことがある。「世界三大宗教って言うけどさ、キリスト教とイスラム教と仏教があって、どれが正しいのか分からないんだから、どれも正しくなくない?」友達も首肯していた。
ジョン・ヒックというキリスト教の神学者は、宗教多元主義というものを提唱していて、一言でいうと、「神は複数の顔を持つ」ということだ。しかしこれにはかなりの批判が集中している。アマゾンのレビューから引用する。
「宗教多元主義という概念は、ほんらいそれ自体が語義矛盾をきたしている。それは(神学を除外した)学問のテーマ・知的な営為としてのみ、意味を持つのであって、実存をかけた信仰者には意味をなさないということを前提にして論を進めなくてはならない。。他宗教を寛容に認めることに異議はないが、自分の信仰を相対化してしまったら、もはやそれは信仰とは言えないのだということ。」
僕はそうは思わない。僕は宗教多元主義を全面的に肯定する。なぜなら、宗教の営みとは、無限者の前で「無」になることであり、他者の信仰に「NO」ということは、自己の「自我」を増幅させることになるからだ。
「凡夫というものは風呂の薪にも劣るものや」たしか物種吉兵衛の言葉だったと思うけれど、こうやって仏の前で無になるのが信仰である。 「無限」に出会ったものは、論理的に考えて「無」になるしかない。しかし「私たちの神は正しい。お前たちの神は悪魔だ」という主張をしている人間が「無」になれるとは思えない。宗教とは「受動性」「受容性」であり、何もかも「YES」という態度が真に「無」になった態度だともいえる。何もかも神(仏)のはからいである。
仏教では自力聖道門と他力浄土門があるが、それも方便のもので、全ての道は一つに繋がっているといったのは鎌倉時代の一遍上人である。実際に一遍は禅の老師から印可を貰ったという話もある(史実かは分からないが)。真宗においても、阿弥陀仏=浄土というのは法性法身、つまり色も形もないもので、実際は浄土は普通に人がイメージするいわゆる「極楽」「天国」といったものとは違い、「悟りそのものの領域」という風に言われる。ではなぜ、浄土に煌びやかな音楽が流れ、心地よい風が吹き、宝石でできた木があるのかというと、それは仏の「方便」であり、例えれば、「凡夫は金の価値が分からないから、金を獅子の形にして提示している」というものらしい。僕はお経というものは全て悟った人が書いていると確信しているけれど、お経を書いた人は「信心を得て死んだ人は悟りの領域そのものという、素晴らしい世界に行けるが、凡夫はそれが分からない、だから感覚的に豪華なものを描いて、信心を起こさせよう」と考えたのだと思う。
良寛、一休、鈴木大拙、といった禅のそうそうたる顔ぶれが、浄土を肯定しているのもその証左だ。鈴木大拙は、浄土即娑婆という解釈であったが、生徒に「先生は死んだらどこにいかれるのですか」と問われると、「私は阿弥陀様の浄土に参らせてもらいます」と答えたらしい。禅も浄土教も一つである。
ラーマクリシュナという、お釈迦様、シャンカラに続くインドの三大聖者と言われている神の化身みたいな人は、キリスト教徒に遇えば「敬虔なキリスト教徒」だと言われ、イスラム教徒に遇えば「敬虔なイスラム教徒」だと言われたらしい。宗教、宗派、修行の道、信仰の道、全ての河は一つの海に流入し、神と一体になる。重要なのは、「無」になること、そして「神」にであうこと、だと僕は思う。
中学生の頃、宗教の勉強をした帰り道、友達にこう言ったことがある。「世界三大宗教って言うけどさ、キリスト教とイスラム教と仏教があって、どれが正しいのか分からないんだから、どれも正しくなくない?」友達も首肯していた。
ジョン・ヒックというキリスト教の神学者は、宗教多元主義というものを提唱していて、一言でいうと、「神は複数の顔を持つ」ということだ。しかしこれにはかなりの批判が集中している。アマゾンのレビューから引用する。
「宗教多元主義という概念は、ほんらいそれ自体が語義矛盾をきたしている。それは(神学を除外した)学問のテーマ・知的な営為としてのみ、意味を持つのであって、実存をかけた信仰者には意味をなさないということを前提にして論を進めなくてはならない。。他宗教を寛容に認めることに異議はないが、自分の信仰を相対化してしまったら、もはやそれは信仰とは言えないのだということ。」
僕はそうは思わない。僕は宗教多元主義を全面的に肯定する。なぜなら、宗教の営みとは、無限者の前で「無」になることであり、他者の信仰に「NO」ということは、自己の「自我」を増幅させることになるからだ。
「凡夫というものは風呂の薪にも劣るものや」たしか物種吉兵衛の言葉だったと思うけれど、こうやって仏の前で無になるのが信仰である。 「無限」に出会ったものは、論理的に考えて「無」になるしかない。しかし「私たちの神は正しい。お前たちの神は悪魔だ」という主張をしている人間が「無」になれるとは思えない。宗教とは「受動性」「受容性」であり、何もかも「YES」という態度が真に「無」になった態度だともいえる。何もかも神(仏)のはからいである。
仏教では自力聖道門と他力浄土門があるが、それも方便のもので、全ての道は一つに繋がっているといったのは鎌倉時代の一遍上人である。実際に一遍は禅の老師から印可を貰ったという話もある(史実かは分からないが)。真宗においても、阿弥陀仏=浄土というのは法性法身、つまり色も形もないもので、実際は浄土は普通に人がイメージするいわゆる「極楽」「天国」といったものとは違い、「悟りそのものの領域」という風に言われる。ではなぜ、浄土に煌びやかな音楽が流れ、心地よい風が吹き、宝石でできた木があるのかというと、それは仏の「方便」であり、例えれば、「凡夫は金の価値が分からないから、金を獅子の形にして提示している」というものらしい。僕はお経というものは全て悟った人が書いていると確信しているけれど、お経を書いた人は「信心を得て死んだ人は悟りの領域そのものという、素晴らしい世界に行けるが、凡夫はそれが分からない、だから感覚的に豪華なものを描いて、信心を起こさせよう」と考えたのだと思う。
良寛、一休、鈴木大拙、といった禅のそうそうたる顔ぶれが、浄土を肯定しているのもその証左だ。鈴木大拙は、浄土即娑婆という解釈であったが、生徒に「先生は死んだらどこにいかれるのですか」と問われると、「私は阿弥陀様の浄土に参らせてもらいます」と答えたらしい。禅も浄土教も一つである。
ラーマクリシュナという、お釈迦様、シャンカラに続くインドの三大聖者と言われている神の化身みたいな人は、キリスト教徒に遇えば「敬虔なキリスト教徒」だと言われ、イスラム教徒に遇えば「敬虔なイスラム教徒」だと言われたらしい。宗教、宗派、修行の道、信仰の道、全ての河は一つの海に流入し、神と一体になる。重要なのは、「無」になること、そして「神」にであうこと、だと僕は思う。
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