自戒
愚かな者が愚かであると自覚するなら、彼はそのことによって賢者となる。
愚かな者が自分を賢いと考えるなら、そういう者こそが、愚か者と言われる。————釈尊
膨張していく宇宙にとって、人間は無限小である。そして、人間を構成するクォークにとっては無限大である。人間は宇宙、銀河系、太陽系、地球、日本、「人間」、器官、細胞、分子、原子、粒子という無限大と無限小の中間に位置する動物である。故に、無限大のことも知らず、無限小のことも知らない。宇宙とは何か、知っている人がいるだろうか?物質とは何か、知っている人がいるだろうか?
人間は、中間的な生物である。この世には夥しい数の論文や本が存在するが、その本のどこに「答え」が載っているのだろうか?「愛とは何か?」「宇宙とは何か?」「自己とは何か?」「死とは何か?」
どこにも答えはないし、誰にも答えは出せない。自己とは何か、知っている人がいるだろうか?
人間は無限に愚かである。これは根本テーゼだと思う。「人間は無限に愚かである」ことだけは真理であると言える。人間は何も知りえない。なぜ、僕が今、PCに向かって文字を打っているのか、視覚とはなんなのか、知覚とはなんなのか、何も分からない。
何も分からないということだけが分かる。ここで僕たちはソクラテスにまで回帰することになる。僕たちに分かるのは「僕たちには何も分からない」ということだけで、それを素直に聞き受けるのが「謙虚」という「無限の知恵」であると思う。愚か、即、謙虚、即、無限。逆に傲慢というのは無限のアホさだ。
頭が良い、とか馬鹿、とかいうのは、知識やIQのことではなく、「自己認識」のことである。
知恵第一と謳われた法然は、自分のことを愚痴の法然房と名乗った。耳四郎という泥棒が、法然の法話を盗み聞きして感激し、法話が終わったあと法然に「こんな私でも救われるでしょうか」と聞くと、法然は「私ほどのものでも救われるのだからあなたでも救われる」と言ったらしい。この「自己認識」こそ、本当の賢さ、謙虚さ、美しさであると思う。
愚かな者が自分を賢いと考えるなら、そういう者こそが、愚か者と言われる。————釈尊
膨張していく宇宙にとって、人間は無限小である。そして、人間を構成するクォークにとっては無限大である。人間は宇宙、銀河系、太陽系、地球、日本、「人間」、器官、細胞、分子、原子、粒子という無限大と無限小の中間に位置する動物である。故に、無限大のことも知らず、無限小のことも知らない。宇宙とは何か、知っている人がいるだろうか?物質とは何か、知っている人がいるだろうか?
人間は、中間的な生物である。この世には夥しい数の論文や本が存在するが、その本のどこに「答え」が載っているのだろうか?「愛とは何か?」「宇宙とは何か?」「自己とは何か?」「死とは何か?」
どこにも答えはないし、誰にも答えは出せない。自己とは何か、知っている人がいるだろうか?
人間は無限に愚かである。これは根本テーゼだと思う。「人間は無限に愚かである」ことだけは真理であると言える。人間は何も知りえない。なぜ、僕が今、PCに向かって文字を打っているのか、視覚とはなんなのか、知覚とはなんなのか、何も分からない。
何も分からないということだけが分かる。ここで僕たちはソクラテスにまで回帰することになる。僕たちに分かるのは「僕たちには何も分からない」ということだけで、それを素直に聞き受けるのが「謙虚」という「無限の知恵」であると思う。愚か、即、謙虚、即、無限。逆に傲慢というのは無限のアホさだ。
頭が良い、とか馬鹿、とかいうのは、知識やIQのことではなく、「自己認識」のことである。
知恵第一と謳われた法然は、自分のことを愚痴の法然房と名乗った。耳四郎という泥棒が、法然の法話を盗み聞きして感激し、法話が終わったあと法然に「こんな私でも救われるでしょうか」と聞くと、法然は「私ほどのものでも救われるのだからあなたでも救われる」と言ったらしい。この「自己認識」こそ、本当の賢さ、謙虚さ、美しさであると思う。
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