創作と嘘と僕と阿弥陀
僕は創作が好きだ。小説を書くのが好きだしこういう風にブログを書くのが好きだ。しかし昔から、表現というものに対して嫌悪感がある。罪だと思う。
厳密に言えば、創作は罪ではない。罪なのは、創作を使って「ちやほや」されようとすること、成功しようとすることだ。自分の創作物を使って、他人に褒められ、お金も貰って、「偉くなる」ということは、僕は、創作を愛していないのではないかと思う。本当に創作を愛しているのならば、自分が作ったものは、ベッドの下に隠しておけばいい。
けれども僕(たち)は他人に自分の創作物を見せることをやめられない。僕は正直言って不誠実だと思う。その自分の「ちやほやされたい、成功したい」という虚栄の心を隠しているのも不誠実だと思うし、自分の創作物に対しても失礼だと思う。僕はそう確信しているけれど、僕と同じ感受性を持った人は少なく、今まで3,4人しか会ったことがない。その中の一人はこう言っていた。
「創作物を公開するのって、どれだけうまく恥を隠せるかっていうゲームじゃないの?」
僕はハッキリ言って、恥ずかし気もなく、創作物を公開している人は、内省の足りない馬鹿だと思う。そういう人は承認欲求の奴隷であって、決して創作者ではない。僕は本物の創作者、つまり物凄い才能を持ちながら、それを慎ましく隠し、創作物は捨ててしまうか、金庫にでも入れておくような「本物」の創作者がどこかにいるんだろうなと夢想する。けれど、悲しいことだけれど、僕は偽物の創作者にしかなれない。
フォロワーの念仏カラスさんが、こういう詩をツイートしていたのでRTした
「嘘をついてもいいんだよ
嘘をついて生きて
いってもいいんだよと
アミダ様に救われた
私は自分自身に嘘をついて
生きていくことが
出来るようになった
なんまんだぶつ
なんまんだ」
僕は昔から言っている通り、創作は「悪」だと思う。「傲慢」だと思う。仏教によれば「悪」を犯したものは地獄に堕ちる。しかし、なんでも赦すという阿弥陀仏がバックにいる人は違う。僕は、信仰をすることによって、ようやく創作を始めることができた。無神論の「悪」は地獄行きだけれど、信仰者の「悪」は赦される。
創作者は誠実ではない。だから全員地獄行きだ。しかし僕は赦されている。僕は小説を好きなだけ書いても、罪が赦される。南無阿弥陀仏。
厳密に言えば、創作は罪ではない。罪なのは、創作を使って「ちやほや」されようとすること、成功しようとすることだ。自分の創作物を使って、他人に褒められ、お金も貰って、「偉くなる」ということは、僕は、創作を愛していないのではないかと思う。本当に創作を愛しているのならば、自分が作ったものは、ベッドの下に隠しておけばいい。
けれども僕(たち)は他人に自分の創作物を見せることをやめられない。僕は正直言って不誠実だと思う。その自分の「ちやほやされたい、成功したい」という虚栄の心を隠しているのも不誠実だと思うし、自分の創作物に対しても失礼だと思う。僕はそう確信しているけれど、僕と同じ感受性を持った人は少なく、今まで3,4人しか会ったことがない。その中の一人はこう言っていた。
「創作物を公開するのって、どれだけうまく恥を隠せるかっていうゲームじゃないの?」
僕はハッキリ言って、恥ずかし気もなく、創作物を公開している人は、内省の足りない馬鹿だと思う。そういう人は承認欲求の奴隷であって、決して創作者ではない。僕は本物の創作者、つまり物凄い才能を持ちながら、それを慎ましく隠し、創作物は捨ててしまうか、金庫にでも入れておくような「本物」の創作者がどこかにいるんだろうなと夢想する。けれど、悲しいことだけれど、僕は偽物の創作者にしかなれない。
フォロワーの念仏カラスさんが、こういう詩をツイートしていたのでRTした
「嘘をついてもいいんだよ
嘘をついて生きて
いってもいいんだよと
アミダ様に救われた
私は自分自身に嘘をついて
生きていくことが
出来るようになった
なんまんだぶつ
なんまんだ」
僕は昔から言っている通り、創作は「悪」だと思う。「傲慢」だと思う。仏教によれば「悪」を犯したものは地獄に堕ちる。しかし、なんでも赦すという阿弥陀仏がバックにいる人は違う。僕は、信仰をすることによって、ようやく創作を始めることができた。無神論の「悪」は地獄行きだけれど、信仰者の「悪」は赦される。
創作者は誠実ではない。だから全員地獄行きだ。しかし僕は赦されている。僕は小説を好きなだけ書いても、罪が赦される。南無阿弥陀仏。
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