恋愛とは何か | 人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

恋愛とは何か

 今、ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」という小説を読んでいる。成人男性が、ロリータという未成年の女と恋愛するという話なのだが、性欲的な要素が強い。恋愛って性欲だけなのだろうか?ちょうど今恋人と同棲みたいな生活しているし、少し考える。
 僕は、恋愛とは契約であって、その契約内容は「お互いの性欲や孤独を満たすこと、他の異性とは満たさないこと」というお互いのエゴの満足及び独占欲の満足で構成されているものだと思っていた。かなり冷笑的である。これでは少し淋しい。
 そういう面があることは否めないが、内在的な価値を見てみると、恋愛には永遠性という価値が見えてくる。恋人がよく「ずっと一緒にいようね、死んでも一緒にいようね」と言ってくるが、死すら乗り越えるような、強い永遠性が働いている。これは肯定的な面だと思う。宗教によって永遠を得られなくなった現代日本人が、恋愛を疑似宗教にしているのも頷ける。
 性欲と束縛が、基調を成していると書いたけれども、このように別の、内在的な価値も考える。
 スピノザは「愛とはその対象が自分の喜び=力の増進を助けること」と定義したが、二人で一緒にいると、身体的にも精神的にも、力が増大するのは間違いない。僕は飲んでいる薬の量が劇的に減っているし、もちろん喜びもある。
 ドーキンスは、宗教とは恋愛をする脳の機能のバグだと言っていたが、確かにそのような考え方もあると思う。恋愛と宗教は、一面かなり似ている。神格化、排他性、陶酔、永遠性…。しかし信仰も恋愛もしている身としては、その感触はかなり違っている。あくまで僕の場合だが、恋愛は情熱という要素があるけれど、信仰は静かな喜びがあるだけだ。神への愛を語るキリスト教などになるとまた違うのかもしれない。
 バタイユのように、恋愛は個体性の乗り越えと言ってもいい。人間はこの身体という檻に閉じ込められ、「連続性」への郷愁を持っている。恋愛は精神的にも、個体を乗り越える行為であるし、身体的にも個体を乗り越える行為である。精神的に個体を乗り越えるというのは自己中心性がいくらか和らぐということで、身体的に個体を乗り越えるというのは、セックス中の脱魂、エクスタシーによって忘我の状態になり、連続性へと回帰するということだ。

 僕は十代の頃から、恋愛はエゴとエゴのぶつかり合いだと度々主張してきた。誰かの歌詞に「エゴとエゴとのシーソーゲーム」という歌詞があったが、言いえて妙だ。自分の孤独や征服欲、性欲を満たすために相手を支配する。ノーマルな恋愛はお互いがお互いを支配しようとするから、血みどろの闘争にならざるを得ない。そう思っていたし、そう書いてもいた。
 
 今の僕ならば、恋愛を潜水に例える。相手の深いところまで潜っていく。魂の湖の、奥の方へ潜っていき、「理解」をする。理解が完了した途端、憑き物が落ちたように、楽になるし、愛も深まる。相手の魂へのダイビングであると思う。しかし決して終わらないダイビングでもある。他者を全的に理解することなど不可能だ。その絶望的な不可能性の希求が恋愛の駆動力であり、不可能故に愛は永遠である。

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