マゾヒスティック馬鹿女むらち
1
僕には意志という心の働きがどういうものか、皆目見当がつかない。知性と感情は分かるけれど、意志というものの感触を掴んだことはない。僕はこの地球の上で、吹けば飛ぶような塵の一つで、私が主体的に動かせるものがあると思えない。意志というのは人間が勝手に作りあげた、虚構のように思う。少なくとも私の場合はそうだ。僕は、運命論者だとか、宿命論者だとか、そういう大仰な言葉を使うことは好まないけれど、一人の人間の力なんてちっぽけで、何も変えられないと思う。みんな、この欲望と愛憎の渦巻く娑婆世界の中で、渦に巻き込まれているだけだ。知性もなく、意志の感触もない私に唯一あるのは、感情だった。特に強いのは、淋しい、という感情だった。孤独といったらごつごつしすぎていて、僕のこの感情にはあたらない。心の中に、雪がしんしんと降り積もるような、そんな淋しさだった。この感情だけが唯一の現実で、あとのもの、例えば世界でさえ、夢に思えることもあった。
今日は、文芸部の宿題の提出日だった。「道」というテーマだったので
「間違えて産道くぐる僕たちは引き返せない子宮の中に」
という短歌を発表した。部の人たちは、怪訝な顔をしていたが、先生は褒めてくれた。私は、褒められると嬉しい。希薄だった存在の輪郭が、明確になるような気がする。空虚な心の中が、少しだけ暖かくなるように感じる。私はどうも、存在が下手、というか生きるのが下手というか、女友達は一人もおらず、男友達ばかりいた。女の子は、私のことを「変な子」と陰口を叩いていて、誰も友達になってくれなかったが、男の子は、私がどれだけ「変な子」でも、存在を肯定してくれた。僕は変なのだと思う。一人称も安定しない。本当は僕、と名乗りたいのだけれど、女の子が僕という一人称を使うと、みんなに煙たがられるのでできるだけ使わないようにしているが、それでもたまに僕、というのが口をついて出てくることがある。僕は僕なのに、僕という言葉を使ってはいけないのが、分からない。
帰宅すると、また父親が酒を飲んで荒れていた。いつも通りのことだから気にしない、と言いたいところだけれど、その光景を見るたびに、僕の心が、傷ついていく気がする。
「由衣、お前も大きくなったなあ」
と言って、酒臭い口の方へ抱き寄せてくる。僕に抵抗する権利があるわけがなく、父親のなすがままになる。父親はぶつぶつと一人で「どいつもこいつも」とか「殺してやる」とか呟いている。僕はそれが怖い。僕は、父親に殺されるんだろうな、と思うことがある。なんだか酒を飲んでいる父親は狂気染みていて、恐ろしい。しかし絶対に暴力などは振るわない。普段の父親は、子煩悩の親バカだ。
「由衣、お前が一番の宝だ」
と酒臭い口で言う。でも先生や、男の子に褒められた時ほど嬉しくないのはなんでなんだろう。
今日も文芸部に行く。Hに「このあとホテル行かない?」と言われたので「行く」と即答する。僕に拒否権はないのだ。拒否権だけでなく、何の権利もない。生きる権利もない。生きる権利がないので当然死ななければいけないけれど、死ぬ権利もない。何の権利もない。Hは部活の途中、こちらへ流し目をしてちらちら見てくる。それが不愉快だった。感情を感じる権利だけはあるのかもしれない。
「由衣ってほんと可愛いよな」
と言いながらHは尻を撫でてくる。
「ありがとう」と私は返事をする。
十七歳の二人でホテル街を歩いていて大丈夫だろうか、と最初の頃は思っていたけれど、ここにいる人たちは全員、自分の性欲にしか関心のない人達ばかりなので、案外安全だった。
「ほんとかわいい」
と言って、まだホテルへ入っていないのにパンツに手を入れてくる。
「まだ早いよ」というが、僕は特に制止しない。Hの顔つきが、だんだん男のそれになってくる。僕はそれを見て、可愛い、と思う。男の子って可愛い、と思う。エッチするだけで、男の子は凄く優しくしてくれるのが、ふしぎだ。
「由衣はほんとに上の中って感じだよね」
と僕の陰毛をわしゃわしゃと触りながらHが言ってくる。僕の顔が上の中というのは、元は女の子が言い出したことらしいが、もうクラスの常識みたいになっている。僕は顔が可愛いから、男の子がエッチしたり優しくしてくれるんだろうから、親には感謝しなくちゃいけないなと思う。僕も、男の子に受けそうな化粧や髪型を研究して身に着けている。女の子には「由衣って男に媚びすぎで気持ち悪い」と言われているらしく、それを初めて聞いたときとても悲しかった。でもその陰口をチクってくれたAくんが、そのあと「俺は全然媚びてるとか思わないけどな」と言って、エッチしてくれたので泣かなくて済んだ。僕は女の子は嫌い。男の子は好き。
「あれ絶対不倫だよな」
「うん、そうかも」
と言ってHは笑う。若い女の人と、ちょっと禿げたおじさんが手を繋いで歩いている。愛には意志が必要なのだろうか。あれが不倫なら、僕とHの関係性はなんなのだろうと思ったが、勿論僕はそんなことは口に出さない。
ホテルにつく。Hが部屋取りに手間取っているので僕が代わりにしてあげる。Hが少し嫌そうな顔で
「さんきゅ」と言った。
部屋に入ると、Hが抱きしめてきた。淋しさのリボンがしゅるしゅるとほどけていく。多分、人の魂というのは体温にあるのだと思う。体温と体温が触れ合うのが、魂のふれあいだと思う。Hが、僕の股間にペニスを押し付けてはあはあ言っている。顔が見たくて少し距離をとった。Hの顔は火照っていて、薄く化粧したみたいに赤かった。可愛い。僕は男の子のこの顔を見るのが好きだ。飢えている獣が餌を見つけたときの顔。僕の女陰にしか興味のない顔。
「ベッドいこ」
とHが行って僕たちはベッドへ行く。それにしても酷いホテルで、ロマンスの欠片もない。コンクリートの中にベッドが置いてあって、申し訳程度に、机の上にピンクの花が置いてある。お互いに十七歳で、お金がないから仕方がない。僕はもっとしっとりした性の雰囲気が好きだけれど、こんな場所ではごつごつした性の雰囲気しか感じられない。でも僕は、体温さえあればいい。
Hはさっきよりももっと赤い顔になって、必死に僕の体をあちこち触っているが、全然気持ちよくない。やっぱりご主人様じゃないと駄目だな、と思う。
「ここ触っていい?」
と僕の女陰を触る。いいよとも言ってないのに勝手に触っているし、そのくせ爪を切ってないせいで、痛い。でも僕はHの征服欲を満たしてあげるために、軽く呻く。
Hには意志があるんだろうか。性欲の、奴隷になっているだけなんじゃないかと思う。クラスの女子だって、みんな空気を読んで仲良しごっこをしているだけで、みんな自分の意志なんて持ってないんじゃないだろうか。僕は「自己」がないと自分で思うけれど、自己ってなんなのだろう。十七歳の僕には何も分からない。
「Hくんってさあ、意志あるの?」
僕の体を一生懸命ぺたぺた触っていたHが頓狂な顔をする。
「え?」
「Hくんってさあ、意志あるの?」
「よくわかんないよ」
といってまた僕の体をぺたぺた触る。
「抱きしめてよ」と僕が言うと、Hはぎゅうぎゅうに抱擁してくる。澱のように僕の魂に溜まっていた淋しさを体温が溶かしていく。三十六、五度の温度があれば、僕はそれでいい。
「もっと強く」
ギシギシと音がするぐらいに、男の人の力で抱きしめてくる。このまま死にたい。消えたい。溶けたい。
「Hくん、殺してよ」
「由衣、さっきから何言ってるんだ、そろそろ入れていい?」
「いいよ」
「生でいい?」
「うん」
Hのペニスは小さくて、本当に何も感じなかった。恥ずかしくないんだろうか。けれど、僕を求めて必死に腰を振っている姿は可愛い。男の子に求められると、ああ、生きてる、と思う。それ以外の時の僕は、幽霊みたいだ。体温のない幽霊みたいだ。もっと道具みたいに扱われたい。ハサミとかそういう道具じゃなくて、試験管みたいに扱われたい。入れているペニスが何度も外れて、何度も入れなおす。ご主人様ならそんな滑稽な真似しないのに。
「由衣、そろそろイっていい?中に出すよ」
僕は何も言わずに、喘ぐ演技をしている。
「由衣さあ、みんなになんて言われてるか知ってる?」
「うん」
「便器とか、他にも言えないような言葉いろいろ裏で言われてるよ」
「知ってる」
「由衣さあ、俺と付き合わねえ?」
「どうして?」
「由衣のこと好きだし、守りたいから、それに他の男とヤって欲しくないし」
「分かった」
「ほんとに?いいの?」
「いいよ」
「やったあ!」とHはガッツポーズをした。これで僕の彼氏は三人になった。
僕はよく、人に意志がないとか主体性がないとか言われる。自分でもそう思うけれど、意志がある人なんて、いるのだろうか。意志というものがなんなのか僕には分からないけれど、多分、自分のしたくない事に対して「否」という能力だろう。けれど僕のクラスメイトは自分のしたくないことをしているように思う。女同士で固まって、空気を読みあって燥ぎたくもないのに燥いだり、したくもない受験勉強をして、どこに「否」があるのだろう。僕はエスパーだから分かる。僕のクラスメイトたち、そして多分僕も、そこそこの大学へ行って、そこでつがいを見つけて、巣を作って子供を作るのだ。そういう物凄く大きな流れがあって、誰も「否」を言う事ができない。怒涛の波が迫って来て、僕たちはそれに溺れるしかない。どうも世界はそういう構造になっているらしく、僕には誰も意志など持っていないように思われる。Hだって、自分の欲望という波に溺れていただけで何にも「否」とは言ってない。意志とはなんだろう…。けれど僕は人間は意志を持ちえないということを知っている点で、クラスメイト達より一歩進んでいると思う。しかし、クラスメイト達は本当に意志なるものを持っているのかもしれない。僕には何も分からない。
家に帰ると、母親に怒られる。
「今何時だと思ってるの!」
「八時です」
「今まで何してたの!」
「Hくんとホテルに行ってました」
「また?いい加減にしてよ。お父さんには言わないであげるから、由衣も言っちゃダメよ。お父さんあんたのこと処女だと思ってるんだから。」
「分かりました」
母親と父親はもう夕飯を済ませていたが、リビングではまた父親が酒を飲んでいる。今日は何か嫌なことがあったのか、泣きながら酒を飲んでいる。
「由衣、お前だけが生きがいだよ」
母親と喧嘩でもしたのだろうか。父親は子供のように泣いていて、いかにも頼りなさげに見えて、なんだか不愉快だった。僕は冷たくなったパスタを黙々と食べる。ぐいっと父親に引っ張られて、父親は僕の胸でおいおいと泣いている。親に求められても、愛されても、男の子やご主人様のように、淋しさが消えたり、存在が許された気分にならないのはなんでなんだろう。
ピンポーンとチャイムが鳴って、誰かお客さんが入ってくる。叔母さんだった。チャイムが鳴ると、父親は居住まいを正して、涙をこぼすのもやめた。父親は薄給のくせに、プライドが高い。叔母さんはお母さんに、遠隔ヒーリングだとか、病原菌は本当は優しい生き物だとか言っている。母親の困っている顔が見えるようだ。
「由衣ちゃんにも遠隔ヒーリングしてあげてるからね、きっともっと明るい性格になるわよ」
リビングへ入って来て突然言われた。なんのことやら分からない。母親に叔母さんは少し思想が強いからまともにとっちゃ駄目だと言われているから
「はあ、ありがとうございます」
と適当に感謝している振りをした。
「遠隔ヒーリングってなんだ?」
と父親が余計なことを言う。
「えっとですね、まず自分の思考をなくすんです。思考をなくすために、呼吸に集中したり、思考を観察したりするんです。そのうち思考のない無の状態に入るので、その状態の時に自分の願望を頭に思い浮かべるんです。そうすると現実もその通りになるんです!現実っていうのは意識が作ってますからね。よかったら今度本を持ってきます」
僕も父親もきょとんとした眼をしていた。
「あとね、由衣ちゃんにはいこれ」と言って、叔母さんが「願望実現ノート」というのをくれた。前書きをぱらぱら読んでいると、このノートに願望を書いてそれを願い続けると、本当に願望が現実になるそうだ。僕はそれをメモ帳代わりにしようと思い、制服のポケットに入れた。
母親は毎日電話でこんな話を聞かされている。そのストレスを僕にぶつけているのかもしれない。叔母さんは少し「変わった人」だ。
翌日、学校へ行くと、授業中にHがちらちらこちらを見てきて、可愛かった。僕は後ろの方の席で、Hは前の方の席なので、Hはいちいち振り返らなければならないけれど、先生の眼を盗んで手を振ったりもした。僕は少し心が痛い。ご主人様は別として、僕にはもう一人Aという恋人がいる。Aも文芸部なので、諍いにならなければいいと思うけれど、騙しているみたいで、二人に申し訳ない。僕はどうするのが正解だったのか、誰に責任があるのか、分からない。僕が全部間違えていて、僕が全部悪いのかもしれない。でも告白を断ると、もうその男の子は優しくしてくれなくなるので、仕方なかった。恋愛というのも大きな渦であって、その渦に巻き込まれるがままになるしかないような気持ちもある。僕とHとAは、それぞれの欲望やタイミングによって、恋愛という皿に乗せられて、その上でなすすべもなく踊っている人形なのだ。神様が糸を引いて遊んでいる操り人形なのだ。誰も神様に「否」をいう事はできない。
授業中、ぼんやりしていると、鳥の鳴く声が聞こえる。翼が欲しい。
部室へ行くと、もう部員が結構集まっていて、僕は少し遅刻したようだった。文芸部と言っても、ほぼ文芸の活動はしてなく、帰宅部だと体裁が悪いと思う人が入っているような、そんな感じだった。
「昨日はHと寝たらしいよ」
「由衣ってほんとヤリマンだよね」
「男にしか相手にされないんでしょ、可哀そうに」
「でもHだけはないよねえ」
僕に聞こえるようにこれ見よがしに女の子が僕の悪口を言っているのが聞こえて、僕はまた淋しくなる。女の子たちの視線が、針のように思えて、怖い。チクチク僕の心を刺してきて、痛い。あの女の子たちは何の権利があって、僕の悪口を言っているんだろう。人が人を傷つける権利はあるんだろうか。僕は、女の子たちにズタズタに裂かれた心と一緒に身体を持ち上げて、女の子たちに近づいた。
「なんで僕の悪口を言うんですか?」
「僕だって」と言って女の子はみんなでクスクス笑う。
「なんの権利があって僕の悪口を言うんですか」
「由衣ちゃん、気持ち悪いよ、そういうの」
僕は怒っているのではなくて、単純に疑問に思って聞いたのに、気持ち悪いと言われてしまった。女の子はなんで僕に優しくないのだろう。エッチできないからだろうな、とは思うけれど。
「真菜ちゃん、ちょっと部活終わった後も残ってくれる?」と僕の悪口を言っていた女の子の一人に言うと
「はぁ?なんで?」と言われたけれど
「大事な話があるから」と言うと黙って頷いた。
「話って何?」
「さっきもみんなに聞いたんだけど、どうして僕の悪口を言うの」
「そりゃあれだけ男と寝てたら誰だって悪口言うよ」
「どうして?」
「どうしてって、はしたないからじゃない?」
「でも真菜ちゃん達には関係なくない?」
「そりゃそうだけど…」
「真菜ちゃんは、自分の意志で悪口を言ってるの?それとも周りの人に合せて言ってるの?」
「自分の意志で言ってるよ。あんた、気持ち悪いもん」
「周りと合せないとハブられるからじゃないの?」
「そんなことない!私たちはマブダチだから」
「そっか、ならいいんだ、ありがとう、ごめんね、時間とらせちゃって」と言って僕は握手を求めた。意外にも真菜ちゃんは握手に応じてくれた。女の子の体温も男の子の体温とあんまり変わらなくて、それが妙に嬉しかった。
「あんたって悪い奴じゃなさそうだね」
「ううん、僕は悪い人だよ」
と言って僕は部室を出た。後ろから真菜ちゃんの声が聞こえたけど、聞こえない振りをした。
「私にはソウルメイトがいないのよ、ソウルメイトっていうのは簡単に言うと前世からの仲間のことなんだけど、私はソウルメイトを旦那にしたいとずっと思ってるのよね。だけどこの人!っていう人がなかなか現れないっていうか、ソウルメイトって出会った瞬間に懐かしいって感じるらしいのね。私は今まで生きてきた中でそんな人に一人もあったことがないの。ソウルメイトと結婚できれば、これ以上の幸せはないんだけれどね。でも私は思考を観察して悟りを開く方法を続けているから、全然辛くないわ。むしろ毎日楽しいの」
叔母のスピリチュアルな話は止まる気配がない。母親は閉口している。
「それでね。私前世療法っていうのこの前受けたの。催眠をかけられて、前世が見えるっていう心理療法なの。それで私見ちゃったんだけど、私、前世ではエジプトの王女だったらしいのね。だから、その時の仲間だったソウルメイトは日本にはいないかもしれないの」
母親の顔がどんどん薄暗くなってくる。
「もう時間遅いし帰ったら?」
「そうね、また来るわね。今日あげた水、米を炊くのにも使えるし飲んでもいいし、好きに使ってね」
「わかったわ、じゃあまたね」
「また来るわね、由衣ちゃんも、ばいばい」
その日の夕食は父親と母親と僕の三人で食べたが、とても雰囲気が悪かった。ここにいる全員が、叔母のことを憎んでいることは間違いなかったが、誰もそのことを口に出さない。一度母親が叔母に、「そんなの全部作り話よ」と言ったことがあるが、その時の叔母の激昂ぶりが尋常ではなかったので、母親は自分の姉に逆らわないようにしている。叔母は結婚もしてないし、子供もいないので、頻繁にうちにやってきては、意味の分からない話をする。僕は叔母が嫌いだ。父親は相変わらず酒癖が悪いし、早く大きくなって、こんな家出ていきたい。同級生の彩芽ちゃんなんかは、親に虐待されてて、僕も痣を見たことがあるから、そういう家に比べると僕は幸福なんだろうけれど、僕は家が好きじゃない。父親が大きいげっぷをした。誰も何も言わない。こういうところが、嫌いだ。でも父親の扶養の元で生活しているので、何も文句は言えない。そして父親が実家にずっといろと言えば、僕はそれに逆らえないだろう。嫌いという感情は、少し意志に近い気がする。
叔母は「変な人」で、僕たちが巻き込まれている大渦の中に入っていない。少し気が違っている。僕たちが義務付けられている、結婚も生殖も労働もしていない。お金はどうしてるのか知らないけれど、国の補助金などで生きているのだと思う。労働とも結婚とも、別の次元で生きている叔母は少し羨ましく思うけれど、あんな風になったら終わりだなとも思う。僕は意志がないので、いずれ誰か、できればご主人様がいいけれど、男の人と結婚をして、子供を産んで、主婦として生きていくのだと思う。それが一番、正しくて幸福な生き方だとみんなが思っている。しかし、叔母を見ていると、叔母のあの心底から何かを信じて、幸福そうに話している姿を否定することもできない。少なくとも父親や母親よりは幸せそうだ。
酷い虚無感に襲われる。Hに、今から会えない?とメッセージを送る。Hは親が厳しいから、こんな時間から外は出歩けないそうだ。この虚無感と淋しさを埋めてくれるのは男の子しかいない。Aに今から会おうよ、エッチしたい。とメッセージを送る。じゃあ〇〇ホテルに集合ね。と返ってきたので僕は安堵した。
「僕、淋しいよ、なんで生きてるか分からない」
「うんうんそういう時もあるよな」
と言ってAは僕の女陰を触ってきた。Hよりは上手いけれど、オナニーよりは気持ちよくない。
「僕淋しいよ」
「俺がいるじゃないか」
「抱きしめてよ」
というとAは抱きしめてくれた。Aの、すべすべした身体が、ほんのり暖かくて、凄く安心する。僕はつらいことがあると、すぐに男の子に連絡をとってしまう。自分で自分が分からない。
「ずっとこのままぎゅってしてて」
「分かった、愛してるよ、由衣」
「僕も愛してる」
嘘だ。僕はちっとも愛してない。Aも僕の顔と身体が好きなだけじゃないかとたまに邪推するけれど、普段のAの様子を見ると本当に愛しているらしかった。しかもAによると、僕たちは結婚するらしかった。本気でAに求婚されれば僕は断れないだろう。
体の力を全部抜いて、Aの好きなようにさせる。それなりに快感はある。けれど局部的な快感より、僕は体温が欲しかった。僕はもう死んだような気持ちになって、Aの道具になる。道具になるのが一番楽だ。感情のない、発育しない、妊娠しない、道具になりたい。道具になって愛されたい。もっと道具みたいに扱って欲しい。男の子に人間じゃない道具にさせられて、生きてる罪とか責任とか、全部なくしたい。知らないうちにAは射精していて、しきりに僕の耳元で「愛してる」と言っていた。なんだか芝居じみていて、滑稽だった。
放課後、部室へ向かうと、部室からドッタンバッタンと異常な音がしていた。女の子たちはみんな部室の前で立ちすくんでいた。真菜ちゃんがつかつかと歩み寄って来て
「あんた、サイテーだね」
と言ってきた。なんとなく察しはついた。 部室のドアを少しだけ開けて覗いてみるとAとHがお互いに椅子を投げ合っていた。お互いに流血していて、鬼のような形相をしていた。僕は
「誰か先生呼んできて!」と叫んだ。
内藤先生はすぐにかけつけてくれて、部室に飛び込んだ。
「お前ら何やってるんだ!」
けれど彼らの暴力は止まらない。彼ら自身にも止められない、止めたほうが負け、意地になっている風だった。先生がAの手を掴んで、無理やり止めさせる。Aは体力を全部使い切って、気力だけで椅子を投げていたようで、すぐへなへなと座り込んでしまった。そして女の子みたいにしくしく泣いている。Hもそれを見てへたり込んで、泣き出した。
「どうしたんだ一体」
「由衣を取られたんです、この卑怯な男に」
「お前のほうが卑怯だろ!」
「まあまあ落ち着いて」
僕は部室へ入ったほうがいいと思い、そろそろと部室へ入った。
AとHが詰め寄ってくる。
「俺たちに二股かけてたのか?」
「だって断れないから…」
「なんでAがいるのに俺と付き合ったんだ」
とHが言う。
「だってそのほうがHくんが喜ぶと思って」
「ふざけんなよ!馬鹿にするな!」と言ってHは僕を打とうとしたが、先生がそれを制止した。
「由衣は俺と結婚するんだ、Hはお呼びじゃない」
HがAに殴りかかろうとするが、先生に手を捕まれているので動けない。
「由衣、なんで俺がいるのにHと付き合ったんだ?」とAがいう。
「だって告白されたから…」
「お前は誰とでも付き合うのか?」
「優しくしてくれたら」
「はあ?お前は一体誰のことが好きなんだよ」
「僕はAもHも好きじゃないです。ごめんなさい」
と言って部室を飛び出した。怒号が飛び交っている気配がしたが、僕は走って逃げた。
先生が走って追いかけてくる。
「話があるから、今日の夕方、先生の家に来なさい」
「はい、ご主人様」
先生がご主人様になったのは、ちょうど一年前ぐらいからだ。僕が不特定多数の男の子とエッチをして、それが職員会議で問題になって、先生に呼び出された。内藤先生は文芸部の顧問だったので、何も拒否できない僕の性格をよく知っていたらしく、職員室で「由衣さん、話したいことがあるので放課後僕の家に来てください」と言われ、先生が帰宅するその足で、そのまま先生の家に行った。何を叱られるのかなと僕はびくびくしていたけれど、先生はニコニコしていて、二人でソファに座って、学校での悩みなどを相談していた。
「実は職員会議で君のことが問題になってね、君は、クラスのほとんどの男子と寝たんだろう?」
「はい」
「どうしてそんなことをするのかな?」
「淋しいからです」
「じゃあ、先生が代わりに淋しさを埋めてあげるから、クラスの男子とセックスをするのはやめよう。いろいろとトラブルになるから。」
「はい」
「先生のことは、ご主人様って呼ぶんだよ」
「はい」
「ご主人様の命令は、命に代えても守るんだよ」
「はい」
「じゃあ最初の命令だけど、先生と由衣ちゃんの関係は、由衣ちゃんの両親にも、クラスのみんなにも、絶対に秘密ね」
「はい」
「ご主人様って呼んでみな」
「ご主人様」
「いい子だね」と言ってご主人様は頭を撫でてくれた。
「由衣ちゃんはどういうプレイが一番好きなのかな?」
「裸で抱き合うのが、一番好きです」
「じゃあ最初は由衣ちゃんが好きなプレイをしよっか」と言って先生は服を脱ぎだした。僕はまるで夢を見ているようで、現実感がなく、ふわふわしていたので、ぼうっとしていたけれど、先生が服を脱がせてくれた。クラスの男の子みたいに、ブラジャーを外すときに手間取ったりしなくて、それだけで少しご主人様のことが好きになった。
「ご主人様って言ってごらん」
「ご主人様」
「いい子だね。ハグしてあげよう」
ご主人様の大人の体は、ごつごつしていたけれど、頼もしくて、すごく安心した。僕はそのとき初めて、僕はずっと不安を抱えて生きてきたんだなと気づいた。不安な状態が当たりまえだったから、ご主人様の体温に触れて安心したとき、心のどん底から安心して、僕はご主人様は神様なんじゃないかと思った。そのまま溶けて、消え入りたかった。心が安心しきったとき、自然と涙が出てきて、つらかったよ、ご主人様、不安だったよ、と僕は泣き続けた。ご主人様はそんな僕を優しい眼で見てくれながら、黙って頭を撫でてくれた。僕は涙が枯れるまで泣き続けた。とても優しい死の中にいる、そんな感じだった。二時間ぐらい、ずっと泣き続けた。ご主人様は呆れずに、ずっと頭を撫でてくれた。
「大丈夫だよ由衣ちゃん、先生が飼ってあげるから」
「はい…」
「でも今日はもうそろそろ帰る時間だね」
「はい」
「一つ目の命令は?」
「僕たちの関係を誰にも言わないことです」
「いい子だね」
ご主人様は車で家まで送ってくれた。僕の身体の中は、春みたいに暖かかった。
「それで、AとHとなんで付き合ってたんだ?」
「告白されたからです」
「俺以外に彼氏作るなって言ったよな?」
「はい」
「脱げ」
「はい」僕は慣れた手つきで服を全部脱ぐ。僕は初めてご主人様の命令を破った。捨てられてしまうかもしれない。そう思うと恐怖で体が震えた。
先生は僕の身体を縄で縛った。今まで何回もされてきたことだけれど、今回は特に怖かった。自由が完全に奪われて、もしかしたら殺されてしまうかもしれない。
「ごめんなさい。許してください。ごめんなさい」
身体が縛られることで、逆に精神が剥き出しになる。身体を持っているという責任から解放されて、魂だけの存在になる
「ご主人様、ごめんなさい」
ご主人様は何も言わない。
「捨てないでください。捨てられたら死んでしまいます。ごめんなさい」
ご主人様は何も言わずに、ソファに座っている。
「殺すなら殺してください。僕が全部悪いです。今怖くてたまらないんです。怖いです。怖い。殺すなら早く殺してください」
ご主人様はにやにやしている。
「怖い。怖い。怖い。好きです。ご主人様のためならなんでもします。怖い。怖いです。殺してください。」
「俺のことが好きならなんで他の男とセックスしたんだ?」
「淋しかったからです。もうしません。ごめんなさい。殺さないでください。怖いです。」
殺されるかもしれない、と思うと、動物的な恐怖感が心臓を呑み込んで、動悸が激しくなる。怖い。怖い!
「死んでしまいたい。」
ご主人様僕ははバラ鞭を持ってきた。刃物じゃなくて、僕は心底安心した。先生はそのバラ鞭で、僕の背中を思いきり叩いた。
「痛い!」
「お前が一番愛してるのは誰?」
「ご主人様です。痛い!痛い!」
今日はなんだかいつもと雰囲気が違う。これじゃプレイじゃなくて、ただの暴力だ。
「痛い!痛い!ごめんなさい!」
瞬間、自分の中のスイッチが切り替わり、痛みが快感に変わっていく。
「痛い!痛い!助けて!」
僕は罰されている。罰されるということは、許されるということだ。償いをしている。僕は罪を償わなければならない。
「痛いよー!助けてよお」
自分の存在の根拠が、ご主人様に移った。僕は道具だ。奴隷だ。僕は自分で存在を証明しなくてもいい。この瞬間、僕の人生の責任は全てご主人様にある。楽だ。何も選択しなくていいし、何も決めなくていい。
「好きです、ご主人様」
ご主人様は叩くのをやっとやめて、またソファにどっかと座った。
「苦しいか」
「苦しいです」
「じゃあ解いてやる」と言って縄をほどいてくれた。
「ごめんな、ひどいことして」
ご主人様は、優しい。悪いことをしたら叱ってくれるし、いいことをしたら褒めてくれる。
ご主人様がぎゅうっと抱擁してくれる。
「怖かったよお」僕は号泣している。
「ごめんな、愛してるよ」
「僕も愛してますう」上手く言葉にならない。全ての感情を感じることが許された気がして、僕は今、愛の感情の中に浸っている。
「ごめんな」
「僕もごめんなさい」
僕が存在する権利はご主人様が持っている。それってなんだか全部が許されているみたいだ。気持ちいい。善と悪が全部ひっくりかえったような、不思議な感じだ。
ご主人様は、ベッドの中で裸になってペニスを挿入することなく、抱擁してくれる。その厚い胸板に抱き着く。三十六、五度だ。ご主人様に全部あげたい。身体とか心とかそういう陳腐なものじゃなくて、人生とか存在そのものをあげたい。僕から全部奪って欲しい。自由とかいらないから、縛って欲しい。僕は僕がいらないから、ご主人様にあげたい。暖かい。僕の一番大事なもの、一番柔らかいところ、一番光っているところを壊されたい。愛してる。愛してる。愛。愛。愛。
僕は道具になりたい。妊娠しない道具になりたい。
その晩帰ると、父がまた酒を飲んでいた。食卓の気分が重い。また僕に存在が戻ってきた。重力が戻ってきた。母親はキチガイの叔母と電話で何か話している。どうしようもない。僕は寝室に入って、すぐ寝た。それ以外に僕にできることはない。
翌日、僕は文芸部を退部させられた。当然だと思う。僕は悪い人だから。
2
久々に酒を飲まずに、たまには家事でも手伝おうかなと思い、嫁に
「なんかすることない?」
と聞いたら
「ちょっと最近掃除してないから掃除してくれない?特に由衣の部屋が汚いから」
と言われたので俺は家の掃除をしていた。同期には先に出世されるし、最近健康診断の結果がよくないし、俺はなんて駄目な人間なんだろうと思うと生きる気力がなくなってきて、酒に頼るしかなくなる。俺の唯一の希望が家族だった。机を布巾で拭きながら、自分の不甲斐なさをしみじみと感じる。由衣も反抗期なのか、あまり相手をしてくれなくなったし、俺はもしかして不幸な人間なんじゃないだろうか。こんなに美人な嫁を貰って、才色兼備の娘もいて、俺は幸福なはずなのに、全然幸福に感じられない。むしろあの、気が狂った嫁の姉のほうが、家族がいないのに幸福そうに見える。けれど全部自己責任だ。仕事ができないから、出世できないのだし、出世できないから酒を飲んで、体を壊すのだ。いっそ死んでしまおうかなと思うことがあるが、娘の結婚式を見るまでは死ねない。
由衣の部屋に久々に入ると、ぬいぐるみなどがいろいろ置いてあって、きちんと女子高生の部屋になっていた。まだ赤ちゃんだった頃が思い出される。自分の不甲斐なさにか、娘の成長にかは分からないが、何かが心に引っかかって、涙が出てくる。
ひょんな好奇心で、勉強机の引き出しを開けてみた。「日記」とだけ油性ペンで書かれたノートが出てきた。由衣の学校生活も知りたいな、と思い、俺は日記を読み始めた。
読んでいる最中、手がわなわなと震え、吐き気さえ催した。読み終わったあと、後悔した。悪酔いしたみたいに、気持ちが悪い。
「由衣、お前の彼氏って何才だ?」
「彼氏なんかいません」
「お父さんな、全部知ってるから」と言って、「日記」を取り出した。娘は「あ!」と言って、必死に取り返そうとするが、絶対に渡さない。証拠になるように、コピーもとってある。
「俺は一番大事なものを壊されたから、俺もあいつの一番大事なものを壊すから」
その日から、食卓で「警察沙汰」と言う言葉が飛び交うようになった。
「絶対に警察沙汰にするから」
「お父さん、それだけはやめて、私はどうなってもいいから」
「絶対に許さないから。殺すか、警察沙汰にするか、どっちかしかない」と言って酒を飲む。
絶対に殺す。
新聞の文字を切り取って
「お前がしていることは犯罪だ。教え子に手を出すな」と書いたチラシを作った。それを内藤とかいう教師のポストに入れた。
「お父さん、先生には何もしないでね、お願いだから」
「怒りは五秒でおさまるというが、あれは嘘だな」
公衆電話から、内藤の家に電話をかける。
「はい、こちら内藤ですが」
「すみません、先生の受け持ちの保護者なんですけれど」
「はいー。どうされました。」
「内藤先生が、教え子にSMプレイを教えているという噂が広まっていて、真偽を確認したいと思って電話をかけたんですけど」
「そんなことしてるわけないじゃないですか!神に誓ってしてません」
「それならいいんですけど、もう保護者の間でその噂で持ち切りになってますよ」
「本当ですか?誰が言い出したんですか?」
「さあ…でも火のない所に煙はたたないって言いますからねえ…。」と言って電話を切った。もちろんあの下衆野郎が由衣にしたことは俺しか知らない。嫁にも言ってない。しかし今頃布団で震えているだろう。
俺は一番大事なものを壊されたから、あいつの一番大事なものを壊す。
高校へ行って、あいつの帰る時間を待ち伏せする。来た。
「どうもこんばんは、由衣の父です」
内藤の顔が引きつる。顔に出ないように必死に取り繕っているが、顔が真っ青だ。俺は内心笑ったが、怒りは消えない。
「こんばんは、お世話になってます」
「今日も暑いですね」
「そうですねえ」内藤の指が小刻みに震えている。
「偶然高校の近くを通ったんで寄らせて貰ったんですけど、迷惑でした?」
「いえ、全然そんなことないですよ」
「いつも由衣がお世話になってることのお礼が言いたかっただけなんですが」
「いえいえ、由衣さんは成績もよくてとてもいい生徒さんですよ」
「じゃあ僕帰ります」
「お気をつけて」
嫌がらせをして、しばらく放っておいた。すぐに警察に突き出しても、俺の気持ちが晴れるとは思えない。
「由衣、最近、内藤どう?」
「欠勤が多くなりました」
「そうかそうか、あ、明日警察に全部突き出すから」
3
僕のせいだ。僕があんなところに日記を置いていたからご主人様が酷い目にあっている…。ご主人様に会いたい。眠れなかったので、ぬいぐるみをご主人様だと思って抱いて寝た。けれどぬいぐるみは冷たい…。
ご主人様に最後に会って、飛び降りて死のうと思って家を出た。ペンキで塗ったみたいに真っ青な空だった。
ご主人様の家に行くと鍵が開いていて、寝ていたのでフェラで起こした。ご主人様が「これが最後のセックスだよ」とか「これが最後の緊縛だよ」とか「これが最後の調教だよ」とかいちいち最後のって言うから涙が止まらなかった。ご主人様にイジメられている時、「絶対にこれで最後にしてはいけない」という思いが湧いてきた。それは紛れもなく意志だった。生まれて初めて意志の感触を掴んだ。それは父親に対する否定だった。
ご主人様に「逃げましょう」
と言って、僕たちは二人で逃げた。世間に「否」を叩きつけて逃げた。どこに逃げるかも分からない。とりあえず海外へ行こう。僕は叔母から貰った「願望実現ノート」をポケットから取りだし、「ご主人様と死ぬまで一緒にいられますように」と書いた。
僕には意志という心の働きがどういうものか、皆目見当がつかない。知性と感情は分かるけれど、意志というものの感触を掴んだことはない。僕はこの地球の上で、吹けば飛ぶような塵の一つで、私が主体的に動かせるものがあると思えない。意志というのは人間が勝手に作りあげた、虚構のように思う。少なくとも私の場合はそうだ。僕は、運命論者だとか、宿命論者だとか、そういう大仰な言葉を使うことは好まないけれど、一人の人間の力なんてちっぽけで、何も変えられないと思う。みんな、この欲望と愛憎の渦巻く娑婆世界の中で、渦に巻き込まれているだけだ。知性もなく、意志の感触もない私に唯一あるのは、感情だった。特に強いのは、淋しい、という感情だった。孤独といったらごつごつしすぎていて、僕のこの感情にはあたらない。心の中に、雪がしんしんと降り積もるような、そんな淋しさだった。この感情だけが唯一の現実で、あとのもの、例えば世界でさえ、夢に思えることもあった。
今日は、文芸部の宿題の提出日だった。「道」というテーマだったので
「間違えて産道くぐる僕たちは引き返せない子宮の中に」
という短歌を発表した。部の人たちは、怪訝な顔をしていたが、先生は褒めてくれた。私は、褒められると嬉しい。希薄だった存在の輪郭が、明確になるような気がする。空虚な心の中が、少しだけ暖かくなるように感じる。私はどうも、存在が下手、というか生きるのが下手というか、女友達は一人もおらず、男友達ばかりいた。女の子は、私のことを「変な子」と陰口を叩いていて、誰も友達になってくれなかったが、男の子は、私がどれだけ「変な子」でも、存在を肯定してくれた。僕は変なのだと思う。一人称も安定しない。本当は僕、と名乗りたいのだけれど、女の子が僕という一人称を使うと、みんなに煙たがられるのでできるだけ使わないようにしているが、それでもたまに僕、というのが口をついて出てくることがある。僕は僕なのに、僕という言葉を使ってはいけないのが、分からない。
帰宅すると、また父親が酒を飲んで荒れていた。いつも通りのことだから気にしない、と言いたいところだけれど、その光景を見るたびに、僕の心が、傷ついていく気がする。
「由衣、お前も大きくなったなあ」
と言って、酒臭い口の方へ抱き寄せてくる。僕に抵抗する権利があるわけがなく、父親のなすがままになる。父親はぶつぶつと一人で「どいつもこいつも」とか「殺してやる」とか呟いている。僕はそれが怖い。僕は、父親に殺されるんだろうな、と思うことがある。なんだか酒を飲んでいる父親は狂気染みていて、恐ろしい。しかし絶対に暴力などは振るわない。普段の父親は、子煩悩の親バカだ。
「由衣、お前が一番の宝だ」
と酒臭い口で言う。でも先生や、男の子に褒められた時ほど嬉しくないのはなんでなんだろう。
今日も文芸部に行く。Hに「このあとホテル行かない?」と言われたので「行く」と即答する。僕に拒否権はないのだ。拒否権だけでなく、何の権利もない。生きる権利もない。生きる権利がないので当然死ななければいけないけれど、死ぬ権利もない。何の権利もない。Hは部活の途中、こちらへ流し目をしてちらちら見てくる。それが不愉快だった。感情を感じる権利だけはあるのかもしれない。
「由衣ってほんと可愛いよな」
と言いながらHは尻を撫でてくる。
「ありがとう」と私は返事をする。
十七歳の二人でホテル街を歩いていて大丈夫だろうか、と最初の頃は思っていたけれど、ここにいる人たちは全員、自分の性欲にしか関心のない人達ばかりなので、案外安全だった。
「ほんとかわいい」
と言って、まだホテルへ入っていないのにパンツに手を入れてくる。
「まだ早いよ」というが、僕は特に制止しない。Hの顔つきが、だんだん男のそれになってくる。僕はそれを見て、可愛い、と思う。男の子って可愛い、と思う。エッチするだけで、男の子は凄く優しくしてくれるのが、ふしぎだ。
「由衣はほんとに上の中って感じだよね」
と僕の陰毛をわしゃわしゃと触りながらHが言ってくる。僕の顔が上の中というのは、元は女の子が言い出したことらしいが、もうクラスの常識みたいになっている。僕は顔が可愛いから、男の子がエッチしたり優しくしてくれるんだろうから、親には感謝しなくちゃいけないなと思う。僕も、男の子に受けそうな化粧や髪型を研究して身に着けている。女の子には「由衣って男に媚びすぎで気持ち悪い」と言われているらしく、それを初めて聞いたときとても悲しかった。でもその陰口をチクってくれたAくんが、そのあと「俺は全然媚びてるとか思わないけどな」と言って、エッチしてくれたので泣かなくて済んだ。僕は女の子は嫌い。男の子は好き。
「あれ絶対不倫だよな」
「うん、そうかも」
と言ってHは笑う。若い女の人と、ちょっと禿げたおじさんが手を繋いで歩いている。愛には意志が必要なのだろうか。あれが不倫なら、僕とHの関係性はなんなのだろうと思ったが、勿論僕はそんなことは口に出さない。
ホテルにつく。Hが部屋取りに手間取っているので僕が代わりにしてあげる。Hが少し嫌そうな顔で
「さんきゅ」と言った。
部屋に入ると、Hが抱きしめてきた。淋しさのリボンがしゅるしゅるとほどけていく。多分、人の魂というのは体温にあるのだと思う。体温と体温が触れ合うのが、魂のふれあいだと思う。Hが、僕の股間にペニスを押し付けてはあはあ言っている。顔が見たくて少し距離をとった。Hの顔は火照っていて、薄く化粧したみたいに赤かった。可愛い。僕は男の子のこの顔を見るのが好きだ。飢えている獣が餌を見つけたときの顔。僕の女陰にしか興味のない顔。
「ベッドいこ」
とHが行って僕たちはベッドへ行く。それにしても酷いホテルで、ロマンスの欠片もない。コンクリートの中にベッドが置いてあって、申し訳程度に、机の上にピンクの花が置いてある。お互いに十七歳で、お金がないから仕方がない。僕はもっとしっとりした性の雰囲気が好きだけれど、こんな場所ではごつごつした性の雰囲気しか感じられない。でも僕は、体温さえあればいい。
Hはさっきよりももっと赤い顔になって、必死に僕の体をあちこち触っているが、全然気持ちよくない。やっぱりご主人様じゃないと駄目だな、と思う。
「ここ触っていい?」
と僕の女陰を触る。いいよとも言ってないのに勝手に触っているし、そのくせ爪を切ってないせいで、痛い。でも僕はHの征服欲を満たしてあげるために、軽く呻く。
Hには意志があるんだろうか。性欲の、奴隷になっているだけなんじゃないかと思う。クラスの女子だって、みんな空気を読んで仲良しごっこをしているだけで、みんな自分の意志なんて持ってないんじゃないだろうか。僕は「自己」がないと自分で思うけれど、自己ってなんなのだろう。十七歳の僕には何も分からない。
「Hくんってさあ、意志あるの?」
僕の体を一生懸命ぺたぺた触っていたHが頓狂な顔をする。
「え?」
「Hくんってさあ、意志あるの?」
「よくわかんないよ」
といってまた僕の体をぺたぺた触る。
「抱きしめてよ」と僕が言うと、Hはぎゅうぎゅうに抱擁してくる。澱のように僕の魂に溜まっていた淋しさを体温が溶かしていく。三十六、五度の温度があれば、僕はそれでいい。
「もっと強く」
ギシギシと音がするぐらいに、男の人の力で抱きしめてくる。このまま死にたい。消えたい。溶けたい。
「Hくん、殺してよ」
「由衣、さっきから何言ってるんだ、そろそろ入れていい?」
「いいよ」
「生でいい?」
「うん」
Hのペニスは小さくて、本当に何も感じなかった。恥ずかしくないんだろうか。けれど、僕を求めて必死に腰を振っている姿は可愛い。男の子に求められると、ああ、生きてる、と思う。それ以外の時の僕は、幽霊みたいだ。体温のない幽霊みたいだ。もっと道具みたいに扱われたい。ハサミとかそういう道具じゃなくて、試験管みたいに扱われたい。入れているペニスが何度も外れて、何度も入れなおす。ご主人様ならそんな滑稽な真似しないのに。
「由衣、そろそろイっていい?中に出すよ」
僕は何も言わずに、喘ぐ演技をしている。
「由衣さあ、みんなになんて言われてるか知ってる?」
「うん」
「便器とか、他にも言えないような言葉いろいろ裏で言われてるよ」
「知ってる」
「由衣さあ、俺と付き合わねえ?」
「どうして?」
「由衣のこと好きだし、守りたいから、それに他の男とヤって欲しくないし」
「分かった」
「ほんとに?いいの?」
「いいよ」
「やったあ!」とHはガッツポーズをした。これで僕の彼氏は三人になった。
僕はよく、人に意志がないとか主体性がないとか言われる。自分でもそう思うけれど、意志がある人なんて、いるのだろうか。意志というものがなんなのか僕には分からないけれど、多分、自分のしたくない事に対して「否」という能力だろう。けれど僕のクラスメイトは自分のしたくないことをしているように思う。女同士で固まって、空気を読みあって燥ぎたくもないのに燥いだり、したくもない受験勉強をして、どこに「否」があるのだろう。僕はエスパーだから分かる。僕のクラスメイトたち、そして多分僕も、そこそこの大学へ行って、そこでつがいを見つけて、巣を作って子供を作るのだ。そういう物凄く大きな流れがあって、誰も「否」を言う事ができない。怒涛の波が迫って来て、僕たちはそれに溺れるしかない。どうも世界はそういう構造になっているらしく、僕には誰も意志など持っていないように思われる。Hだって、自分の欲望という波に溺れていただけで何にも「否」とは言ってない。意志とはなんだろう…。けれど僕は人間は意志を持ちえないということを知っている点で、クラスメイト達より一歩進んでいると思う。しかし、クラスメイト達は本当に意志なるものを持っているのかもしれない。僕には何も分からない。
家に帰ると、母親に怒られる。
「今何時だと思ってるの!」
「八時です」
「今まで何してたの!」
「Hくんとホテルに行ってました」
「また?いい加減にしてよ。お父さんには言わないであげるから、由衣も言っちゃダメよ。お父さんあんたのこと処女だと思ってるんだから。」
「分かりました」
母親と父親はもう夕飯を済ませていたが、リビングではまた父親が酒を飲んでいる。今日は何か嫌なことがあったのか、泣きながら酒を飲んでいる。
「由衣、お前だけが生きがいだよ」
母親と喧嘩でもしたのだろうか。父親は子供のように泣いていて、いかにも頼りなさげに見えて、なんだか不愉快だった。僕は冷たくなったパスタを黙々と食べる。ぐいっと父親に引っ張られて、父親は僕の胸でおいおいと泣いている。親に求められても、愛されても、男の子やご主人様のように、淋しさが消えたり、存在が許された気分にならないのはなんでなんだろう。
ピンポーンとチャイムが鳴って、誰かお客さんが入ってくる。叔母さんだった。チャイムが鳴ると、父親は居住まいを正して、涙をこぼすのもやめた。父親は薄給のくせに、プライドが高い。叔母さんはお母さんに、遠隔ヒーリングだとか、病原菌は本当は優しい生き物だとか言っている。母親の困っている顔が見えるようだ。
「由衣ちゃんにも遠隔ヒーリングしてあげてるからね、きっともっと明るい性格になるわよ」
リビングへ入って来て突然言われた。なんのことやら分からない。母親に叔母さんは少し思想が強いからまともにとっちゃ駄目だと言われているから
「はあ、ありがとうございます」
と適当に感謝している振りをした。
「遠隔ヒーリングってなんだ?」
と父親が余計なことを言う。
「えっとですね、まず自分の思考をなくすんです。思考をなくすために、呼吸に集中したり、思考を観察したりするんです。そのうち思考のない無の状態に入るので、その状態の時に自分の願望を頭に思い浮かべるんです。そうすると現実もその通りになるんです!現実っていうのは意識が作ってますからね。よかったら今度本を持ってきます」
僕も父親もきょとんとした眼をしていた。
「あとね、由衣ちゃんにはいこれ」と言って、叔母さんが「願望実現ノート」というのをくれた。前書きをぱらぱら読んでいると、このノートに願望を書いてそれを願い続けると、本当に願望が現実になるそうだ。僕はそれをメモ帳代わりにしようと思い、制服のポケットに入れた。
母親は毎日電話でこんな話を聞かされている。そのストレスを僕にぶつけているのかもしれない。叔母さんは少し「変わった人」だ。
翌日、学校へ行くと、授業中にHがちらちらこちらを見てきて、可愛かった。僕は後ろの方の席で、Hは前の方の席なので、Hはいちいち振り返らなければならないけれど、先生の眼を盗んで手を振ったりもした。僕は少し心が痛い。ご主人様は別として、僕にはもう一人Aという恋人がいる。Aも文芸部なので、諍いにならなければいいと思うけれど、騙しているみたいで、二人に申し訳ない。僕はどうするのが正解だったのか、誰に責任があるのか、分からない。僕が全部間違えていて、僕が全部悪いのかもしれない。でも告白を断ると、もうその男の子は優しくしてくれなくなるので、仕方なかった。恋愛というのも大きな渦であって、その渦に巻き込まれるがままになるしかないような気持ちもある。僕とHとAは、それぞれの欲望やタイミングによって、恋愛という皿に乗せられて、その上でなすすべもなく踊っている人形なのだ。神様が糸を引いて遊んでいる操り人形なのだ。誰も神様に「否」をいう事はできない。
授業中、ぼんやりしていると、鳥の鳴く声が聞こえる。翼が欲しい。
部室へ行くと、もう部員が結構集まっていて、僕は少し遅刻したようだった。文芸部と言っても、ほぼ文芸の活動はしてなく、帰宅部だと体裁が悪いと思う人が入っているような、そんな感じだった。
「昨日はHと寝たらしいよ」
「由衣ってほんとヤリマンだよね」
「男にしか相手にされないんでしょ、可哀そうに」
「でもHだけはないよねえ」
僕に聞こえるようにこれ見よがしに女の子が僕の悪口を言っているのが聞こえて、僕はまた淋しくなる。女の子たちの視線が、針のように思えて、怖い。チクチク僕の心を刺してきて、痛い。あの女の子たちは何の権利があって、僕の悪口を言っているんだろう。人が人を傷つける権利はあるんだろうか。僕は、女の子たちにズタズタに裂かれた心と一緒に身体を持ち上げて、女の子たちに近づいた。
「なんで僕の悪口を言うんですか?」
「僕だって」と言って女の子はみんなでクスクス笑う。
「なんの権利があって僕の悪口を言うんですか」
「由衣ちゃん、気持ち悪いよ、そういうの」
僕は怒っているのではなくて、単純に疑問に思って聞いたのに、気持ち悪いと言われてしまった。女の子はなんで僕に優しくないのだろう。エッチできないからだろうな、とは思うけれど。
「真菜ちゃん、ちょっと部活終わった後も残ってくれる?」と僕の悪口を言っていた女の子の一人に言うと
「はぁ?なんで?」と言われたけれど
「大事な話があるから」と言うと黙って頷いた。
「話って何?」
「さっきもみんなに聞いたんだけど、どうして僕の悪口を言うの」
「そりゃあれだけ男と寝てたら誰だって悪口言うよ」
「どうして?」
「どうしてって、はしたないからじゃない?」
「でも真菜ちゃん達には関係なくない?」
「そりゃそうだけど…」
「真菜ちゃんは、自分の意志で悪口を言ってるの?それとも周りの人に合せて言ってるの?」
「自分の意志で言ってるよ。あんた、気持ち悪いもん」
「周りと合せないとハブられるからじゃないの?」
「そんなことない!私たちはマブダチだから」
「そっか、ならいいんだ、ありがとう、ごめんね、時間とらせちゃって」と言って僕は握手を求めた。意外にも真菜ちゃんは握手に応じてくれた。女の子の体温も男の子の体温とあんまり変わらなくて、それが妙に嬉しかった。
「あんたって悪い奴じゃなさそうだね」
「ううん、僕は悪い人だよ」
と言って僕は部室を出た。後ろから真菜ちゃんの声が聞こえたけど、聞こえない振りをした。
「私にはソウルメイトがいないのよ、ソウルメイトっていうのは簡単に言うと前世からの仲間のことなんだけど、私はソウルメイトを旦那にしたいとずっと思ってるのよね。だけどこの人!っていう人がなかなか現れないっていうか、ソウルメイトって出会った瞬間に懐かしいって感じるらしいのね。私は今まで生きてきた中でそんな人に一人もあったことがないの。ソウルメイトと結婚できれば、これ以上の幸せはないんだけれどね。でも私は思考を観察して悟りを開く方法を続けているから、全然辛くないわ。むしろ毎日楽しいの」
叔母のスピリチュアルな話は止まる気配がない。母親は閉口している。
「それでね。私前世療法っていうのこの前受けたの。催眠をかけられて、前世が見えるっていう心理療法なの。それで私見ちゃったんだけど、私、前世ではエジプトの王女だったらしいのね。だから、その時の仲間だったソウルメイトは日本にはいないかもしれないの」
母親の顔がどんどん薄暗くなってくる。
「もう時間遅いし帰ったら?」
「そうね、また来るわね。今日あげた水、米を炊くのにも使えるし飲んでもいいし、好きに使ってね」
「わかったわ、じゃあまたね」
「また来るわね、由衣ちゃんも、ばいばい」
その日の夕食は父親と母親と僕の三人で食べたが、とても雰囲気が悪かった。ここにいる全員が、叔母のことを憎んでいることは間違いなかったが、誰もそのことを口に出さない。一度母親が叔母に、「そんなの全部作り話よ」と言ったことがあるが、その時の叔母の激昂ぶりが尋常ではなかったので、母親は自分の姉に逆らわないようにしている。叔母は結婚もしてないし、子供もいないので、頻繁にうちにやってきては、意味の分からない話をする。僕は叔母が嫌いだ。父親は相変わらず酒癖が悪いし、早く大きくなって、こんな家出ていきたい。同級生の彩芽ちゃんなんかは、親に虐待されてて、僕も痣を見たことがあるから、そういう家に比べると僕は幸福なんだろうけれど、僕は家が好きじゃない。父親が大きいげっぷをした。誰も何も言わない。こういうところが、嫌いだ。でも父親の扶養の元で生活しているので、何も文句は言えない。そして父親が実家にずっといろと言えば、僕はそれに逆らえないだろう。嫌いという感情は、少し意志に近い気がする。
叔母は「変な人」で、僕たちが巻き込まれている大渦の中に入っていない。少し気が違っている。僕たちが義務付けられている、結婚も生殖も労働もしていない。お金はどうしてるのか知らないけれど、国の補助金などで生きているのだと思う。労働とも結婚とも、別の次元で生きている叔母は少し羨ましく思うけれど、あんな風になったら終わりだなとも思う。僕は意志がないので、いずれ誰か、できればご主人様がいいけれど、男の人と結婚をして、子供を産んで、主婦として生きていくのだと思う。それが一番、正しくて幸福な生き方だとみんなが思っている。しかし、叔母を見ていると、叔母のあの心底から何かを信じて、幸福そうに話している姿を否定することもできない。少なくとも父親や母親よりは幸せそうだ。
酷い虚無感に襲われる。Hに、今から会えない?とメッセージを送る。Hは親が厳しいから、こんな時間から外は出歩けないそうだ。この虚無感と淋しさを埋めてくれるのは男の子しかいない。Aに今から会おうよ、エッチしたい。とメッセージを送る。じゃあ〇〇ホテルに集合ね。と返ってきたので僕は安堵した。
「僕、淋しいよ、なんで生きてるか分からない」
「うんうんそういう時もあるよな」
と言ってAは僕の女陰を触ってきた。Hよりは上手いけれど、オナニーよりは気持ちよくない。
「僕淋しいよ」
「俺がいるじゃないか」
「抱きしめてよ」
というとAは抱きしめてくれた。Aの、すべすべした身体が、ほんのり暖かくて、凄く安心する。僕はつらいことがあると、すぐに男の子に連絡をとってしまう。自分で自分が分からない。
「ずっとこのままぎゅってしてて」
「分かった、愛してるよ、由衣」
「僕も愛してる」
嘘だ。僕はちっとも愛してない。Aも僕の顔と身体が好きなだけじゃないかとたまに邪推するけれど、普段のAの様子を見ると本当に愛しているらしかった。しかもAによると、僕たちは結婚するらしかった。本気でAに求婚されれば僕は断れないだろう。
体の力を全部抜いて、Aの好きなようにさせる。それなりに快感はある。けれど局部的な快感より、僕は体温が欲しかった。僕はもう死んだような気持ちになって、Aの道具になる。道具になるのが一番楽だ。感情のない、発育しない、妊娠しない、道具になりたい。道具になって愛されたい。もっと道具みたいに扱って欲しい。男の子に人間じゃない道具にさせられて、生きてる罪とか責任とか、全部なくしたい。知らないうちにAは射精していて、しきりに僕の耳元で「愛してる」と言っていた。なんだか芝居じみていて、滑稽だった。
放課後、部室へ向かうと、部室からドッタンバッタンと異常な音がしていた。女の子たちはみんな部室の前で立ちすくんでいた。真菜ちゃんがつかつかと歩み寄って来て
「あんた、サイテーだね」
と言ってきた。なんとなく察しはついた。 部室のドアを少しだけ開けて覗いてみるとAとHがお互いに椅子を投げ合っていた。お互いに流血していて、鬼のような形相をしていた。僕は
「誰か先生呼んできて!」と叫んだ。
内藤先生はすぐにかけつけてくれて、部室に飛び込んだ。
「お前ら何やってるんだ!」
けれど彼らの暴力は止まらない。彼ら自身にも止められない、止めたほうが負け、意地になっている風だった。先生がAの手を掴んで、無理やり止めさせる。Aは体力を全部使い切って、気力だけで椅子を投げていたようで、すぐへなへなと座り込んでしまった。そして女の子みたいにしくしく泣いている。Hもそれを見てへたり込んで、泣き出した。
「どうしたんだ一体」
「由衣を取られたんです、この卑怯な男に」
「お前のほうが卑怯だろ!」
「まあまあ落ち着いて」
僕は部室へ入ったほうがいいと思い、そろそろと部室へ入った。
AとHが詰め寄ってくる。
「俺たちに二股かけてたのか?」
「だって断れないから…」
「なんでAがいるのに俺と付き合ったんだ」
とHが言う。
「だってそのほうがHくんが喜ぶと思って」
「ふざけんなよ!馬鹿にするな!」と言ってHは僕を打とうとしたが、先生がそれを制止した。
「由衣は俺と結婚するんだ、Hはお呼びじゃない」
HがAに殴りかかろうとするが、先生に手を捕まれているので動けない。
「由衣、なんで俺がいるのにHと付き合ったんだ?」とAがいう。
「だって告白されたから…」
「お前は誰とでも付き合うのか?」
「優しくしてくれたら」
「はあ?お前は一体誰のことが好きなんだよ」
「僕はAもHも好きじゃないです。ごめんなさい」
と言って部室を飛び出した。怒号が飛び交っている気配がしたが、僕は走って逃げた。
先生が走って追いかけてくる。
「話があるから、今日の夕方、先生の家に来なさい」
「はい、ご主人様」
先生がご主人様になったのは、ちょうど一年前ぐらいからだ。僕が不特定多数の男の子とエッチをして、それが職員会議で問題になって、先生に呼び出された。内藤先生は文芸部の顧問だったので、何も拒否できない僕の性格をよく知っていたらしく、職員室で「由衣さん、話したいことがあるので放課後僕の家に来てください」と言われ、先生が帰宅するその足で、そのまま先生の家に行った。何を叱られるのかなと僕はびくびくしていたけれど、先生はニコニコしていて、二人でソファに座って、学校での悩みなどを相談していた。
「実は職員会議で君のことが問題になってね、君は、クラスのほとんどの男子と寝たんだろう?」
「はい」
「どうしてそんなことをするのかな?」
「淋しいからです」
「じゃあ、先生が代わりに淋しさを埋めてあげるから、クラスの男子とセックスをするのはやめよう。いろいろとトラブルになるから。」
「はい」
「先生のことは、ご主人様って呼ぶんだよ」
「はい」
「ご主人様の命令は、命に代えても守るんだよ」
「はい」
「じゃあ最初の命令だけど、先生と由衣ちゃんの関係は、由衣ちゃんの両親にも、クラスのみんなにも、絶対に秘密ね」
「はい」
「ご主人様って呼んでみな」
「ご主人様」
「いい子だね」と言ってご主人様は頭を撫でてくれた。
「由衣ちゃんはどういうプレイが一番好きなのかな?」
「裸で抱き合うのが、一番好きです」
「じゃあ最初は由衣ちゃんが好きなプレイをしよっか」と言って先生は服を脱ぎだした。僕はまるで夢を見ているようで、現実感がなく、ふわふわしていたので、ぼうっとしていたけれど、先生が服を脱がせてくれた。クラスの男の子みたいに、ブラジャーを外すときに手間取ったりしなくて、それだけで少しご主人様のことが好きになった。
「ご主人様って言ってごらん」
「ご主人様」
「いい子だね。ハグしてあげよう」
ご主人様の大人の体は、ごつごつしていたけれど、頼もしくて、すごく安心した。僕はそのとき初めて、僕はずっと不安を抱えて生きてきたんだなと気づいた。不安な状態が当たりまえだったから、ご主人様の体温に触れて安心したとき、心のどん底から安心して、僕はご主人様は神様なんじゃないかと思った。そのまま溶けて、消え入りたかった。心が安心しきったとき、自然と涙が出てきて、つらかったよ、ご主人様、不安だったよ、と僕は泣き続けた。ご主人様はそんな僕を優しい眼で見てくれながら、黙って頭を撫でてくれた。僕は涙が枯れるまで泣き続けた。とても優しい死の中にいる、そんな感じだった。二時間ぐらい、ずっと泣き続けた。ご主人様は呆れずに、ずっと頭を撫でてくれた。
「大丈夫だよ由衣ちゃん、先生が飼ってあげるから」
「はい…」
「でも今日はもうそろそろ帰る時間だね」
「はい」
「一つ目の命令は?」
「僕たちの関係を誰にも言わないことです」
「いい子だね」
ご主人様は車で家まで送ってくれた。僕の身体の中は、春みたいに暖かかった。
「それで、AとHとなんで付き合ってたんだ?」
「告白されたからです」
「俺以外に彼氏作るなって言ったよな?」
「はい」
「脱げ」
「はい」僕は慣れた手つきで服を全部脱ぐ。僕は初めてご主人様の命令を破った。捨てられてしまうかもしれない。そう思うと恐怖で体が震えた。
先生は僕の身体を縄で縛った。今まで何回もされてきたことだけれど、今回は特に怖かった。自由が完全に奪われて、もしかしたら殺されてしまうかもしれない。
「ごめんなさい。許してください。ごめんなさい」
身体が縛られることで、逆に精神が剥き出しになる。身体を持っているという責任から解放されて、魂だけの存在になる
「ご主人様、ごめんなさい」
ご主人様は何も言わない。
「捨てないでください。捨てられたら死んでしまいます。ごめんなさい」
ご主人様は何も言わずに、ソファに座っている。
「殺すなら殺してください。僕が全部悪いです。今怖くてたまらないんです。怖いです。怖い。殺すなら早く殺してください」
ご主人様はにやにやしている。
「怖い。怖い。怖い。好きです。ご主人様のためならなんでもします。怖い。怖いです。殺してください。」
「俺のことが好きならなんで他の男とセックスしたんだ?」
「淋しかったからです。もうしません。ごめんなさい。殺さないでください。怖いです。」
殺されるかもしれない、と思うと、動物的な恐怖感が心臓を呑み込んで、動悸が激しくなる。怖い。怖い!
「死んでしまいたい。」
ご主人様僕ははバラ鞭を持ってきた。刃物じゃなくて、僕は心底安心した。先生はそのバラ鞭で、僕の背中を思いきり叩いた。
「痛い!」
「お前が一番愛してるのは誰?」
「ご主人様です。痛い!痛い!」
今日はなんだかいつもと雰囲気が違う。これじゃプレイじゃなくて、ただの暴力だ。
「痛い!痛い!ごめんなさい!」
瞬間、自分の中のスイッチが切り替わり、痛みが快感に変わっていく。
「痛い!痛い!助けて!」
僕は罰されている。罰されるということは、許されるということだ。償いをしている。僕は罪を償わなければならない。
「痛いよー!助けてよお」
自分の存在の根拠が、ご主人様に移った。僕は道具だ。奴隷だ。僕は自分で存在を証明しなくてもいい。この瞬間、僕の人生の責任は全てご主人様にある。楽だ。何も選択しなくていいし、何も決めなくていい。
「好きです、ご主人様」
ご主人様は叩くのをやっとやめて、またソファにどっかと座った。
「苦しいか」
「苦しいです」
「じゃあ解いてやる」と言って縄をほどいてくれた。
「ごめんな、ひどいことして」
ご主人様は、優しい。悪いことをしたら叱ってくれるし、いいことをしたら褒めてくれる。
ご主人様がぎゅうっと抱擁してくれる。
「怖かったよお」僕は号泣している。
「ごめんな、愛してるよ」
「僕も愛してますう」上手く言葉にならない。全ての感情を感じることが許された気がして、僕は今、愛の感情の中に浸っている。
「ごめんな」
「僕もごめんなさい」
僕が存在する権利はご主人様が持っている。それってなんだか全部が許されているみたいだ。気持ちいい。善と悪が全部ひっくりかえったような、不思議な感じだ。
ご主人様は、ベッドの中で裸になってペニスを挿入することなく、抱擁してくれる。その厚い胸板に抱き着く。三十六、五度だ。ご主人様に全部あげたい。身体とか心とかそういう陳腐なものじゃなくて、人生とか存在そのものをあげたい。僕から全部奪って欲しい。自由とかいらないから、縛って欲しい。僕は僕がいらないから、ご主人様にあげたい。暖かい。僕の一番大事なもの、一番柔らかいところ、一番光っているところを壊されたい。愛してる。愛してる。愛。愛。愛。
僕は道具になりたい。妊娠しない道具になりたい。
その晩帰ると、父がまた酒を飲んでいた。食卓の気分が重い。また僕に存在が戻ってきた。重力が戻ってきた。母親はキチガイの叔母と電話で何か話している。どうしようもない。僕は寝室に入って、すぐ寝た。それ以外に僕にできることはない。
翌日、僕は文芸部を退部させられた。当然だと思う。僕は悪い人だから。
2
久々に酒を飲まずに、たまには家事でも手伝おうかなと思い、嫁に
「なんかすることない?」
と聞いたら
「ちょっと最近掃除してないから掃除してくれない?特に由衣の部屋が汚いから」
と言われたので俺は家の掃除をしていた。同期には先に出世されるし、最近健康診断の結果がよくないし、俺はなんて駄目な人間なんだろうと思うと生きる気力がなくなってきて、酒に頼るしかなくなる。俺の唯一の希望が家族だった。机を布巾で拭きながら、自分の不甲斐なさをしみじみと感じる。由衣も反抗期なのか、あまり相手をしてくれなくなったし、俺はもしかして不幸な人間なんじゃないだろうか。こんなに美人な嫁を貰って、才色兼備の娘もいて、俺は幸福なはずなのに、全然幸福に感じられない。むしろあの、気が狂った嫁の姉のほうが、家族がいないのに幸福そうに見える。けれど全部自己責任だ。仕事ができないから、出世できないのだし、出世できないから酒を飲んで、体を壊すのだ。いっそ死んでしまおうかなと思うことがあるが、娘の結婚式を見るまでは死ねない。
由衣の部屋に久々に入ると、ぬいぐるみなどがいろいろ置いてあって、きちんと女子高生の部屋になっていた。まだ赤ちゃんだった頃が思い出される。自分の不甲斐なさにか、娘の成長にかは分からないが、何かが心に引っかかって、涙が出てくる。
ひょんな好奇心で、勉強机の引き出しを開けてみた。「日記」とだけ油性ペンで書かれたノートが出てきた。由衣の学校生活も知りたいな、と思い、俺は日記を読み始めた。
読んでいる最中、手がわなわなと震え、吐き気さえ催した。読み終わったあと、後悔した。悪酔いしたみたいに、気持ちが悪い。
「由衣、お前の彼氏って何才だ?」
「彼氏なんかいません」
「お父さんな、全部知ってるから」と言って、「日記」を取り出した。娘は「あ!」と言って、必死に取り返そうとするが、絶対に渡さない。証拠になるように、コピーもとってある。
「俺は一番大事なものを壊されたから、俺もあいつの一番大事なものを壊すから」
その日から、食卓で「警察沙汰」と言う言葉が飛び交うようになった。
「絶対に警察沙汰にするから」
「お父さん、それだけはやめて、私はどうなってもいいから」
「絶対に許さないから。殺すか、警察沙汰にするか、どっちかしかない」と言って酒を飲む。
絶対に殺す。
新聞の文字を切り取って
「お前がしていることは犯罪だ。教え子に手を出すな」と書いたチラシを作った。それを内藤とかいう教師のポストに入れた。
「お父さん、先生には何もしないでね、お願いだから」
「怒りは五秒でおさまるというが、あれは嘘だな」
公衆電話から、内藤の家に電話をかける。
「はい、こちら内藤ですが」
「すみません、先生の受け持ちの保護者なんですけれど」
「はいー。どうされました。」
「内藤先生が、教え子にSMプレイを教えているという噂が広まっていて、真偽を確認したいと思って電話をかけたんですけど」
「そんなことしてるわけないじゃないですか!神に誓ってしてません」
「それならいいんですけど、もう保護者の間でその噂で持ち切りになってますよ」
「本当ですか?誰が言い出したんですか?」
「さあ…でも火のない所に煙はたたないって言いますからねえ…。」と言って電話を切った。もちろんあの下衆野郎が由衣にしたことは俺しか知らない。嫁にも言ってない。しかし今頃布団で震えているだろう。
俺は一番大事なものを壊されたから、あいつの一番大事なものを壊す。
高校へ行って、あいつの帰る時間を待ち伏せする。来た。
「どうもこんばんは、由衣の父です」
内藤の顔が引きつる。顔に出ないように必死に取り繕っているが、顔が真っ青だ。俺は内心笑ったが、怒りは消えない。
「こんばんは、お世話になってます」
「今日も暑いですね」
「そうですねえ」内藤の指が小刻みに震えている。
「偶然高校の近くを通ったんで寄らせて貰ったんですけど、迷惑でした?」
「いえ、全然そんなことないですよ」
「いつも由衣がお世話になってることのお礼が言いたかっただけなんですが」
「いえいえ、由衣さんは成績もよくてとてもいい生徒さんですよ」
「じゃあ僕帰ります」
「お気をつけて」
嫌がらせをして、しばらく放っておいた。すぐに警察に突き出しても、俺の気持ちが晴れるとは思えない。
「由衣、最近、内藤どう?」
「欠勤が多くなりました」
「そうかそうか、あ、明日警察に全部突き出すから」
3
僕のせいだ。僕があんなところに日記を置いていたからご主人様が酷い目にあっている…。ご主人様に会いたい。眠れなかったので、ぬいぐるみをご主人様だと思って抱いて寝た。けれどぬいぐるみは冷たい…。
ご主人様に最後に会って、飛び降りて死のうと思って家を出た。ペンキで塗ったみたいに真っ青な空だった。
ご主人様の家に行くと鍵が開いていて、寝ていたのでフェラで起こした。ご主人様が「これが最後のセックスだよ」とか「これが最後の緊縛だよ」とか「これが最後の調教だよ」とかいちいち最後のって言うから涙が止まらなかった。ご主人様にイジメられている時、「絶対にこれで最後にしてはいけない」という思いが湧いてきた。それは紛れもなく意志だった。生まれて初めて意志の感触を掴んだ。それは父親に対する否定だった。
ご主人様に「逃げましょう」
と言って、僕たちは二人で逃げた。世間に「否」を叩きつけて逃げた。どこに逃げるかも分からない。とりあえず海外へ行こう。僕は叔母から貰った「願望実現ノート」をポケットから取りだし、「ご主人様と死ぬまで一緒にいられますように」と書いた。
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