俗
引きこもって何してたの?と聞かれると、最初の六年間は西洋哲学をしていて、あとの3年間は仏教をしていて、結局浄土真宗を信仰することにした、という。僕は、本当に、何の他意も衒いもなく、一途に死の問題を九年間も孤独に追及したことに誇りを持っているし、それが一番正しい道だったと今でも固く信じている。けれど人にそういう話をしても、全く興味を持たれない。逆に、死の問題を解決してから始めた、小説の方に興味を持たれるので、それが気に食わない。というか、俗っぽいなあ、と思ってしまう。
生に一番大事なものは聖であって、それがあるからこそ生きていける。それがあるからこそ死んでいける。仏教の経典は、この世の宝を全て集めても、それ以上の価値があると言われるが、その通りだと思う。聖に出会うという一点に、人生の重大事があるのであって、あとは枝葉末節のクダラナイことである。
僕は、性の問題も聖の問題も解決したので、あとは生をして、俗っぽく、賞でもとって名誉を追及しようかなあ、という気持ちもあったが、最近はそれも萎えてきて、自分が書きたいことを書くのが一番で、賞などは二の次だな、と思うようになった。僕は聖としては念仏に出会うために、生としては小説を書くために生まれついているのだと最近は思う。僕は小説を書くのが楽しくてたまらない。
小2の頃に、動物が書かれてある迷路のような絵が描かれたプリントが配られて、その動物をどう潜り抜けるかという物語を書く、という国語の授業があった。今でも覚えているということは、相当印象深かったんだと思う。僕はその授業が楽しくてたまらなくて、ずっと妄想を膨らませていた。
物語、というのは思想や人生の襞を上手く描写することで、それが上手くなりたいという欲求がかなり強くある。
生に一番大事なものは聖であって、それがあるからこそ生きていける。それがあるからこそ死んでいける。仏教の経典は、この世の宝を全て集めても、それ以上の価値があると言われるが、その通りだと思う。聖に出会うという一点に、人生の重大事があるのであって、あとは枝葉末節のクダラナイことである。
僕は、性の問題も聖の問題も解決したので、あとは生をして、俗っぽく、賞でもとって名誉を追及しようかなあ、という気持ちもあったが、最近はそれも萎えてきて、自分が書きたいことを書くのが一番で、賞などは二の次だな、と思うようになった。僕は聖としては念仏に出会うために、生としては小説を書くために生まれついているのだと最近は思う。僕は小説を書くのが楽しくてたまらない。
小2の頃に、動物が書かれてある迷路のような絵が描かれたプリントが配られて、その動物をどう潜り抜けるかという物語を書く、という国語の授業があった。今でも覚えているということは、相当印象深かったんだと思う。僕はその授業が楽しくてたまらなくて、ずっと妄想を膨らませていた。
物語、というのは思想や人生の襞を上手く描写することで、それが上手くなりたいという欲求がかなり強くある。
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