遊園地の日
産まれてきたくなかった。いや、厳密に言えば産んで欲しくなかった。父になること、母になること。これがこの世における唯一の罪悪である。子供を産むことは、一種の賭け、ギャンブルである。しかもかなり分が悪いギャンブルである。なんせあのお釈迦さまがこの世は一切皆苦と言っているのだ。絶対に避けるできない苦が八つある。産まれることの苦。
老いていく苦。病気になる苦。死んでゆく苦。愛するものと別れなければならない苦。憎んでいる者と会わなければならない苦。求めているものが手に入らない苦。存在している苦。どれだけ金持ちの家に産まれようと、美男美女に産まれようと、これらの苦は免れない。他にも数えきれないほどの苦があるだろう。ブラック企業で働く苦。受験戦争の苦。犯罪にでくわす苦。なぜお母さんは僕をこんな世界に産んだのだろう。子供の頃、「社会に出たらもっとしんどいよ」と言われたことがある。じゃあなんで産んだのだろう。世間体とか、ペットが欲しいからだろうか。僕は生殖というのは親のエゴであると思う。
毎日こんなことを考えながら起床する。ベッドの中で、「あー」とか「うー」とか言いながら、生殖の加害性を考えて、親への憎しみを沸々煮込む。なんで産んだ!なんで産んだ!と全身が悲鳴をあげている。なんで心臓は動くんだ、僕は苦しいんだ。憎しみ、憎しみ、憎しみ。加害者へ対する憎しみ。いっそのこと自殺してしまいたいが、死ぬのは恐怖でしかない。産まれることがなければ、死ぬこともなかった、という意味で親は僕の殺人者でもある。「産まれたから死ぬのだ」。じゃあ被害者の僕は親へ復讐する権利があるのではないか?殺してやりたい。僕に世界を与えた加害者を殺してやりたい。
僕は、障碍者として産まれた。自閉症スペクトラム障害だ。アスペルガー症候群という。この時点で、賭けに負けたと言ってもいい。僕は極度の人間嫌い、赤面症で、学校へ行くのが苦痛で仕方なかった。国語の時間の音読が苦痛で仕方なかった。余りにもコミュニケーションが苦手なので、部活で他校へ練習へ行ったとき、他校の先輩に「君、耳に障害があるの?」と言われたことがある。
必然、引きこもるようになる。僕は今二十五歳で、十六歳から引きこもっているから、引きこもり歴九年だ。生きる希望も何もない。
地元のコンビニで同級生に会うと、勿論「最近何してるの?」ときかれる。「何も」というと気まずい空気が流れて、相手はレジの方へ歩を進める。自閉症スペクトラム障害のせいで、偏食で野菜が食べられない上に、生活リズムが偏っていて、引きこもっているというストレスも加わり、うつ病になる。僕は九年間引きこもって職歴も学歴もない無職の精神障碍者だった。「誰が悪い?」ときかれると、真っ先にこう答えるだろう。「母親、あと父親」父親があのとき中出ししなければ、僕は存在しなかったのだ。無、だったのだ。無には苦痛がない。しかし、もう遅すぎる。それは一生手に入らない楽園だ。いや、未来にも無がある。僕は無と無の間に挟まれた苦痛でしかない。ならば最初から産まれなければいい。未来の無だけが僕の希望だ。
うつ病のせいで、動くのも億劫で、PCの目の前に座るのがやっとだ。僕は今日もSNSを開いて、「反出生主義界隈」にログインする。今年は稀にみる猛暑だとテレビで言っているのに、部屋には扇風機しかない。今日は扇風機すら機能しない猛暑で、扇風機も、人を馬鹿にしたような熱気しか送って来ない。猫がトイレに糞をして部屋全体が糞の匂いに塗れていたが、動く気力がないのでそのままにする。窓を開ける気にもならない、薄暗い、暑い、クソの匂いのする部屋で、僕はインターネットで世界へ繋がる。「反出生主義界隈」は今日も盛り上がっていて、出生主義者を全員論破していた。僕たちのことをアンチナタリスト、出生主義者のことをナタリスト、という。ナタリストは自分が「間違いの末に産まれてきてしまった存在」だと認めるのが怖いのだ。子供を、「同意なく」この苦しみの世界へ産むのは明らかに犯罪的だ。なぜこんな簡単な論理が分からないのだろう?アンチナタリストの友人が、こう呟いていた。
「今日スーパーに行ったら、子連れが何人もいて、マジで可哀そうだった。ナタリストのエゴのせいでたくさんの被害者が産まれる」
僕はそれにいいね、をつけた。その呟きに対して、ナタリストが
「あなた達って自分の厭世観を人に押し付けてて恥ずかしくないの?自分が産まれたくなかったってだけでなんでそれを人に押し付けるの?」と返信を送っていた。決して僕は人に厭世観を押し付けているわけではない。これは倫理の問題なのだ。出生が悪ならば、それを止めるべきだ。殺人が悪だから止めるべきなのと同じだ。ナタリストってなんでこんなに馬鹿なんだろう…。僕が恋人やセックスについての呟きをしていると、それにも噛みついてくる(僕はこの界隈では有名人なのだ)。アンチナタリストになぜ恋人がいてはいけないのだろう。僕たちは出生を否定しているだけで、「すでに産まれてしまった人」は幸福に生きるべきだと言っている。セックスも避妊すればいいだけじゃないか。本当に馬鹿だ…。愚かだ…。
そういえば、今日は恋人と一緒に遊園地へ行く日だった。けれども体が重い…。ドタキャンしようと思ったが、僕はデパスをいつもより多く、しかも酒で流し込んで、半分ラリったようなような状態になって、ようやく立ち上がることができた。デパスを酒で流し込むと、体に涼しい風が吹いてきて、先ほどと比べると、まるで筋斗雲にでも乗っているような気分になる。しかし頭は朦朧として、呂律は回らない。なぜこんな男に恋人がいるのか訝しむ人もおられるかもしれないから言っておくが、世の中には僕のような「母性をくすぐるタイプ」が好きな女性も多いのだ。ただ、それだけだ。
熱中症にうってつけの気温だった。まるで頭の上でも目玉焼きが作れそうだった。クロックスがコンクリートで溶けるかもしれない。汗が滝のように流れて、せっかく二週間振りに風呂へ入ったのに、台無しだ。
「ちょっと遅すぎない?もう三十分ぐらい待ったわよ。初めてのデートに遅れるなんて、最悪」初めて?と僕は思った。そういえば僕の家でだらだらすることは何度かあったが、デートは初めてだった。
「ごめんごめん、ちょっと準備に時間かかっちゃって」
「準備って何よ、女じゃないんだから」
「ほら、デパスが効いてくるのを待ったり、風呂で垢を落としたり、いろいろあるよ」
「昨日の夜も風呂に入らなかったの?さっきの風呂、何日ぶり?」
「二週間ぐらいかな」
「はあ?」と言って彼女は警察犬のように僕の体臭をかいだ。
「ちょっとまだ臭いわよ、ホテルでもう一回洗ってね
「はーい」と僕は適当に答えた。
初めて来た遊園地だったが、原色ばっかりでどぎつい色をしていた。お世辞にもロマンチックとは言えない代物だった。子供用の遊園地なのだろうか?そういえば家族連れしかいない気がする。ということを考えている横で、じゃあ大人は千五百円ですねーという声が聞こえる。勿論財布など持ってきていない。
「最初は何のろっか?最初からジェットコースターでも行く?」
「ばかいえ。あんなの乗るやつはキチガイかマゾヒストだけだ」
「ふーん、怖いんだ」
「こわかないよ」
「じゃあ乗りな?」
「分かったよ、乗ればいいんだろ」
と言って、どぎつい赤と黒で塗られたジェットコースター乗り場へ歩いた。
「汗が凄いけど、やっぱり怖いの?」
「暑いからだよ!」
僕は恋人繋ぎにしていた手を離した。徐々に乗り場が近づいてくる。まだ乗ってもないのに、鼓動が速くなっている。ヤバいかもしれない。
彼女がチケット代を払って、二人で横になって座る。レバーが降りますので云々という声がしたが、もう何も聞こえなかった。
「佐伯」
「なーに?」
「愛してるよ」
「どうしたの急に?」
「さっき乗り場にネジが落ちていたんだ。僕たちはもう終わりだ。」
「大げさねえ」と言って佐伯は笑った。
ガタン!という大きな音がして、ジェットコースターは動き出した。ガタッガタッと言いながら徐々に上方へ向かっているのが分かる。僕が眼を瞑っているのに気づいた佐伯は「やっぱり怖いんだ」といって、挑発した。
「汗が眼に入っただけ!」と言って僕は目を開けた。信じられない光景が目の前に広がっていた。目の前には線路が全く見えなかった。つまり僕は頂上へいたのだ。ゴオオオという音とともに、一気にジェットコースターは線路を駆け降りる。耳では風を切る音がする。うわあああああと声を張り上げて、僕は絶叫した。なぜか戦争のイメージが頭に浮かんだ。そうだ、カミカゼだ。僕はこのまま敵艦へ特攻して死ぬんだ。佐伯は楽しそうにきゃあきゃあ言っている。僕たちはこれから死ぬのに。第二波がやってきた。僕はまたうわあああと絶叫して、佐伯に「Kくん凄い顔してるよ」と笑われてしまった。ジェットコースターが終わった後、僕は大地が動かないことをこれまでにないほど感謝した。
「Kくんって絶叫系ダメなんだ」
「駄目ってわけじゃないんだけどね…。今日は体調が悪くて」
「ふーん、体調が悪かったんだ、次は何に乗る?」
「コーヒーカップとかがいいなあ」
「じゃあ歩きながらさがそっか」と言って僕たちは歩き始めた。
家族連れの数が多い。
「可哀そうだ」と僕は思わず呟いた。
「え、誰が?」
「あの子供たち」
「またその話?怒るよ?Kくんがどんな思想信条を持ってたとしても私は何も言わないけど、それを私の前で口にするのだけはやめて。不愉快なの。」
「でも、実際産まれたら苦しいことばかりじゃないか」
「そうかもしれないけど、産まれなかったら、今日みたいにデートもできなかったよ?」
「そりゃそうだけど…。」と僕は言葉に詰まった。デパスが切れてきたので、追加で飲んだ。
コーヒーカップに乗っている間、僕は、自分の思想を点検していた。僕は間違っているのだろうか?確かに家族連れの客も僕も佐伯も、とても今この瞬間を楽しんでいる。しかしこの遊園地から出れば、またうつ病で苦しむ地獄が戻ってくるだけじゃないか。でも父さんが母さんの中で射精をしなければ、この優美な時間も存在しなかった。佐伯さんはどう思う?
「そうだねえ、思想とか難しいことは私分かんないけど、この命を"贈り物"として見る人と"呪われたもの"として見る人がいるだけなんじゃないかしら。自分がもしも親からとても美しい贈り物を貰っていると感じている人は、それを当然別の人にも渡したくなるよね。逆に鬱が酷い時のKくんみたいに、親に呪われたものを渡されたと思っている人は当然それを別の人に渡すのはやめるよね。それだけじゃないかな。私は贈り物だと思ってるよ。産まれてきてよかったと思ってるよ。Kくんに出会えたから」と言った。それから佐伯は照れ隠しをするようにコーヒーカップを思いきり回した。カップは思いきりぐるんぐるんと回って僕は吐き気がしてきた。酒を戻しそうだった。
「ちょっと、ギブ。」
「だらしないねえ」佐伯はいつも笑っている。
次どこ行くー?うーん、観覧車かな、一番上でキスしようよ。いいね、カップルっぽくて。
「さっきの続きなんだけどさ、僕、間違ってるのかな?」
「ううん、別に間違ってないと思うよ。命の感じ方の問題だと思うから。でもKくんは、いま、産まれてきてよかったと思わない?」
「今はそう思うよ、でも、家に帰って薬が切れたらまた産まれてきたくなかったって思うような気がする。」
「だから、正しいことなんてないんだって。あるのは感じ方だけ。Kくんは今は産まれてきてよかったって思ってるんだから、それでいいじゃない、うつ病が治ったら、きっとそう思うことが増えるよ。私ね、最近家で花を育ててるの。その花が成長するのを見るだけで、生きてて良かったなって思うよ。でもね、私ももしうつ病になったり、重い病気になったら産まれてきたくなかったって思っちゃうかもしれない。だから、感じ方の問題なのよ」と佐伯は言った。
象が歩くようにゆっくりと観覧車は上へ昇っていく。僕は鞄に忍ばせておいた酒を飲んだ。なぜだか佐伯がとてもいじらしく感じたのだ。てっぺんに昇って、キスをした。佐伯にKくん、お酒臭いと笑われた。佐伯は本当によく笑う。つられて僕も笑った。もしかして僕は産まれてきてよかったのかもしれない、と少し思った。けれどそう思うのは今までの自分を否定するみたいで、むずがゆく、不快だった。
日も落ち、遊園地を出て、ホテルへ行った。言いつけ通り、僕は念入りに体を洗って、ベッドへ向かった。
「Kくん、結婚しない?だってもう私たち二十五歳じゃんか、そろそろ焦らないとと思って」いきなり出た結婚という重い言葉に、僕はしどろもどろになった。
「もちろん今ってわけじゃないよ、口約束の婚約。」
「でも僕、稼ぎないよ。」
「私にあるから大丈夫。Kくんはほら、小説書いてるでしょ。私がパトロンになってあげる。」話が急すぎてついていけなかった。結婚…?
「まあそんな話はいっか。私もう観覧車でキスしたときから濡れてたのよ、速くしよ」
佐伯の性器に指をはわせる。佐伯の甘い吐息が聞こえる。性器の表面をかき混ぜるように撫でると、吐息はどんどん荒くなった。
「早く入れて?」と言って、佐伯はコンドームを僕の性器に装着した。佐伯に「あっち向いて」と言ってバックの体勢をとらせた。僕は、コンドームを性器から外して、佐伯と一つになった。
老いていく苦。病気になる苦。死んでゆく苦。愛するものと別れなければならない苦。憎んでいる者と会わなければならない苦。求めているものが手に入らない苦。存在している苦。どれだけ金持ちの家に産まれようと、美男美女に産まれようと、これらの苦は免れない。他にも数えきれないほどの苦があるだろう。ブラック企業で働く苦。受験戦争の苦。犯罪にでくわす苦。なぜお母さんは僕をこんな世界に産んだのだろう。子供の頃、「社会に出たらもっとしんどいよ」と言われたことがある。じゃあなんで産んだのだろう。世間体とか、ペットが欲しいからだろうか。僕は生殖というのは親のエゴであると思う。
毎日こんなことを考えながら起床する。ベッドの中で、「あー」とか「うー」とか言いながら、生殖の加害性を考えて、親への憎しみを沸々煮込む。なんで産んだ!なんで産んだ!と全身が悲鳴をあげている。なんで心臓は動くんだ、僕は苦しいんだ。憎しみ、憎しみ、憎しみ。加害者へ対する憎しみ。いっそのこと自殺してしまいたいが、死ぬのは恐怖でしかない。産まれることがなければ、死ぬこともなかった、という意味で親は僕の殺人者でもある。「産まれたから死ぬのだ」。じゃあ被害者の僕は親へ復讐する権利があるのではないか?殺してやりたい。僕に世界を与えた加害者を殺してやりたい。
僕は、障碍者として産まれた。自閉症スペクトラム障害だ。アスペルガー症候群という。この時点で、賭けに負けたと言ってもいい。僕は極度の人間嫌い、赤面症で、学校へ行くのが苦痛で仕方なかった。国語の時間の音読が苦痛で仕方なかった。余りにもコミュニケーションが苦手なので、部活で他校へ練習へ行ったとき、他校の先輩に「君、耳に障害があるの?」と言われたことがある。
必然、引きこもるようになる。僕は今二十五歳で、十六歳から引きこもっているから、引きこもり歴九年だ。生きる希望も何もない。
地元のコンビニで同級生に会うと、勿論「最近何してるの?」ときかれる。「何も」というと気まずい空気が流れて、相手はレジの方へ歩を進める。自閉症スペクトラム障害のせいで、偏食で野菜が食べられない上に、生活リズムが偏っていて、引きこもっているというストレスも加わり、うつ病になる。僕は九年間引きこもって職歴も学歴もない無職の精神障碍者だった。「誰が悪い?」ときかれると、真っ先にこう答えるだろう。「母親、あと父親」父親があのとき中出ししなければ、僕は存在しなかったのだ。無、だったのだ。無には苦痛がない。しかし、もう遅すぎる。それは一生手に入らない楽園だ。いや、未来にも無がある。僕は無と無の間に挟まれた苦痛でしかない。ならば最初から産まれなければいい。未来の無だけが僕の希望だ。
うつ病のせいで、動くのも億劫で、PCの目の前に座るのがやっとだ。僕は今日もSNSを開いて、「反出生主義界隈」にログインする。今年は稀にみる猛暑だとテレビで言っているのに、部屋には扇風機しかない。今日は扇風機すら機能しない猛暑で、扇風機も、人を馬鹿にしたような熱気しか送って来ない。猫がトイレに糞をして部屋全体が糞の匂いに塗れていたが、動く気力がないのでそのままにする。窓を開ける気にもならない、薄暗い、暑い、クソの匂いのする部屋で、僕はインターネットで世界へ繋がる。「反出生主義界隈」は今日も盛り上がっていて、出生主義者を全員論破していた。僕たちのことをアンチナタリスト、出生主義者のことをナタリスト、という。ナタリストは自分が「間違いの末に産まれてきてしまった存在」だと認めるのが怖いのだ。子供を、「同意なく」この苦しみの世界へ産むのは明らかに犯罪的だ。なぜこんな簡単な論理が分からないのだろう?アンチナタリストの友人が、こう呟いていた。
「今日スーパーに行ったら、子連れが何人もいて、マジで可哀そうだった。ナタリストのエゴのせいでたくさんの被害者が産まれる」
僕はそれにいいね、をつけた。その呟きに対して、ナタリストが
「あなた達って自分の厭世観を人に押し付けてて恥ずかしくないの?自分が産まれたくなかったってだけでなんでそれを人に押し付けるの?」と返信を送っていた。決して僕は人に厭世観を押し付けているわけではない。これは倫理の問題なのだ。出生が悪ならば、それを止めるべきだ。殺人が悪だから止めるべきなのと同じだ。ナタリストってなんでこんなに馬鹿なんだろう…。僕が恋人やセックスについての呟きをしていると、それにも噛みついてくる(僕はこの界隈では有名人なのだ)。アンチナタリストになぜ恋人がいてはいけないのだろう。僕たちは出生を否定しているだけで、「すでに産まれてしまった人」は幸福に生きるべきだと言っている。セックスも避妊すればいいだけじゃないか。本当に馬鹿だ…。愚かだ…。
そういえば、今日は恋人と一緒に遊園地へ行く日だった。けれども体が重い…。ドタキャンしようと思ったが、僕はデパスをいつもより多く、しかも酒で流し込んで、半分ラリったようなような状態になって、ようやく立ち上がることができた。デパスを酒で流し込むと、体に涼しい風が吹いてきて、先ほどと比べると、まるで筋斗雲にでも乗っているような気分になる。しかし頭は朦朧として、呂律は回らない。なぜこんな男に恋人がいるのか訝しむ人もおられるかもしれないから言っておくが、世の中には僕のような「母性をくすぐるタイプ」が好きな女性も多いのだ。ただ、それだけだ。
熱中症にうってつけの気温だった。まるで頭の上でも目玉焼きが作れそうだった。クロックスがコンクリートで溶けるかもしれない。汗が滝のように流れて、せっかく二週間振りに風呂へ入ったのに、台無しだ。
「ちょっと遅すぎない?もう三十分ぐらい待ったわよ。初めてのデートに遅れるなんて、最悪」初めて?と僕は思った。そういえば僕の家でだらだらすることは何度かあったが、デートは初めてだった。
「ごめんごめん、ちょっと準備に時間かかっちゃって」
「準備って何よ、女じゃないんだから」
「ほら、デパスが効いてくるのを待ったり、風呂で垢を落としたり、いろいろあるよ」
「昨日の夜も風呂に入らなかったの?さっきの風呂、何日ぶり?」
「二週間ぐらいかな」
「はあ?」と言って彼女は警察犬のように僕の体臭をかいだ。
「ちょっとまだ臭いわよ、ホテルでもう一回洗ってね
「はーい」と僕は適当に答えた。
初めて来た遊園地だったが、原色ばっかりでどぎつい色をしていた。お世辞にもロマンチックとは言えない代物だった。子供用の遊園地なのだろうか?そういえば家族連れしかいない気がする。ということを考えている横で、じゃあ大人は千五百円ですねーという声が聞こえる。勿論財布など持ってきていない。
「最初は何のろっか?最初からジェットコースターでも行く?」
「ばかいえ。あんなの乗るやつはキチガイかマゾヒストだけだ」
「ふーん、怖いんだ」
「こわかないよ」
「じゃあ乗りな?」
「分かったよ、乗ればいいんだろ」
と言って、どぎつい赤と黒で塗られたジェットコースター乗り場へ歩いた。
「汗が凄いけど、やっぱり怖いの?」
「暑いからだよ!」
僕は恋人繋ぎにしていた手を離した。徐々に乗り場が近づいてくる。まだ乗ってもないのに、鼓動が速くなっている。ヤバいかもしれない。
彼女がチケット代を払って、二人で横になって座る。レバーが降りますので云々という声がしたが、もう何も聞こえなかった。
「佐伯」
「なーに?」
「愛してるよ」
「どうしたの急に?」
「さっき乗り場にネジが落ちていたんだ。僕たちはもう終わりだ。」
「大げさねえ」と言って佐伯は笑った。
ガタン!という大きな音がして、ジェットコースターは動き出した。ガタッガタッと言いながら徐々に上方へ向かっているのが分かる。僕が眼を瞑っているのに気づいた佐伯は「やっぱり怖いんだ」といって、挑発した。
「汗が眼に入っただけ!」と言って僕は目を開けた。信じられない光景が目の前に広がっていた。目の前には線路が全く見えなかった。つまり僕は頂上へいたのだ。ゴオオオという音とともに、一気にジェットコースターは線路を駆け降りる。耳では風を切る音がする。うわあああああと声を張り上げて、僕は絶叫した。なぜか戦争のイメージが頭に浮かんだ。そうだ、カミカゼだ。僕はこのまま敵艦へ特攻して死ぬんだ。佐伯は楽しそうにきゃあきゃあ言っている。僕たちはこれから死ぬのに。第二波がやってきた。僕はまたうわあああと絶叫して、佐伯に「Kくん凄い顔してるよ」と笑われてしまった。ジェットコースターが終わった後、僕は大地が動かないことをこれまでにないほど感謝した。
「Kくんって絶叫系ダメなんだ」
「駄目ってわけじゃないんだけどね…。今日は体調が悪くて」
「ふーん、体調が悪かったんだ、次は何に乗る?」
「コーヒーカップとかがいいなあ」
「じゃあ歩きながらさがそっか」と言って僕たちは歩き始めた。
家族連れの数が多い。
「可哀そうだ」と僕は思わず呟いた。
「え、誰が?」
「あの子供たち」
「またその話?怒るよ?Kくんがどんな思想信条を持ってたとしても私は何も言わないけど、それを私の前で口にするのだけはやめて。不愉快なの。」
「でも、実際産まれたら苦しいことばかりじゃないか」
「そうかもしれないけど、産まれなかったら、今日みたいにデートもできなかったよ?」
「そりゃそうだけど…。」と僕は言葉に詰まった。デパスが切れてきたので、追加で飲んだ。
コーヒーカップに乗っている間、僕は、自分の思想を点検していた。僕は間違っているのだろうか?確かに家族連れの客も僕も佐伯も、とても今この瞬間を楽しんでいる。しかしこの遊園地から出れば、またうつ病で苦しむ地獄が戻ってくるだけじゃないか。でも父さんが母さんの中で射精をしなければ、この優美な時間も存在しなかった。佐伯さんはどう思う?
「そうだねえ、思想とか難しいことは私分かんないけど、この命を"贈り物"として見る人と"呪われたもの"として見る人がいるだけなんじゃないかしら。自分がもしも親からとても美しい贈り物を貰っていると感じている人は、それを当然別の人にも渡したくなるよね。逆に鬱が酷い時のKくんみたいに、親に呪われたものを渡されたと思っている人は当然それを別の人に渡すのはやめるよね。それだけじゃないかな。私は贈り物だと思ってるよ。産まれてきてよかったと思ってるよ。Kくんに出会えたから」と言った。それから佐伯は照れ隠しをするようにコーヒーカップを思いきり回した。カップは思いきりぐるんぐるんと回って僕は吐き気がしてきた。酒を戻しそうだった。
「ちょっと、ギブ。」
「だらしないねえ」佐伯はいつも笑っている。
次どこ行くー?うーん、観覧車かな、一番上でキスしようよ。いいね、カップルっぽくて。
「さっきの続きなんだけどさ、僕、間違ってるのかな?」
「ううん、別に間違ってないと思うよ。命の感じ方の問題だと思うから。でもKくんは、いま、産まれてきてよかったと思わない?」
「今はそう思うよ、でも、家に帰って薬が切れたらまた産まれてきたくなかったって思うような気がする。」
「だから、正しいことなんてないんだって。あるのは感じ方だけ。Kくんは今は産まれてきてよかったって思ってるんだから、それでいいじゃない、うつ病が治ったら、きっとそう思うことが増えるよ。私ね、最近家で花を育ててるの。その花が成長するのを見るだけで、生きてて良かったなって思うよ。でもね、私ももしうつ病になったり、重い病気になったら産まれてきたくなかったって思っちゃうかもしれない。だから、感じ方の問題なのよ」と佐伯は言った。
象が歩くようにゆっくりと観覧車は上へ昇っていく。僕は鞄に忍ばせておいた酒を飲んだ。なぜだか佐伯がとてもいじらしく感じたのだ。てっぺんに昇って、キスをした。佐伯にKくん、お酒臭いと笑われた。佐伯は本当によく笑う。つられて僕も笑った。もしかして僕は産まれてきてよかったのかもしれない、と少し思った。けれどそう思うのは今までの自分を否定するみたいで、むずがゆく、不快だった。
日も落ち、遊園地を出て、ホテルへ行った。言いつけ通り、僕は念入りに体を洗って、ベッドへ向かった。
「Kくん、結婚しない?だってもう私たち二十五歳じゃんか、そろそろ焦らないとと思って」いきなり出た結婚という重い言葉に、僕はしどろもどろになった。
「もちろん今ってわけじゃないよ、口約束の婚約。」
「でも僕、稼ぎないよ。」
「私にあるから大丈夫。Kくんはほら、小説書いてるでしょ。私がパトロンになってあげる。」話が急すぎてついていけなかった。結婚…?
「まあそんな話はいっか。私もう観覧車でキスしたときから濡れてたのよ、速くしよ」
佐伯の性器に指をはわせる。佐伯の甘い吐息が聞こえる。性器の表面をかき混ぜるように撫でると、吐息はどんどん荒くなった。
「早く入れて?」と言って、佐伯はコンドームを僕の性器に装着した。佐伯に「あっち向いて」と言ってバックの体勢をとらせた。僕は、コンドームを性器から外して、佐伯と一つになった。
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