生きてる意味の答えなどない
「人はなぜ生きるのか?」苦悩してきた人々が何度問うてきた問いか分からない。僕自身も何度問うたか分からない。僕は僕なりに答えが出た。それは「Q.人はなぜ生きるか?A.答えなどない」
問い自体がおかしいのだと思う。ナンセンスな問いなのだと思う。答えのない問いなのだと思う。「今僕の部屋に羊は何匹いるでしょう?」みたいな意味のない問いだ。答えがない。けれども苦悩する人間は、こう問わざるを得ない。「なぜ苦しみながらも生きなければならないのか」
解法はある。問いを消せばいいのだ。バグワン・シュリ・ラジニーシという宗教家が、悟った瞬間に、何もかも分かったということはない、ただ「問いが消えた」と本に書いてあった。問いが落ちる。問いが落ちればいい。
無量寿経に、法蔵菩薩が五劫の間思惟したと書いてある。一劫というのは四十里四方の石に、百年に一度天女が下りてきて、衣でさっと撫でる。それでその石がなくなるまでの時間と言われる。それが五回だ。途方もない時間、「問い」を持っただろう。そしてその問いから生まれたのが「南無阿弥陀仏」なのだ。
人間は、愚かで何も分からないから、「南無阿弥陀仏」という六字に全ての「大丈夫」を詰め込んだ。僕は生きてる意味など問う必要もない。五劫の間に法蔵菩薩が清浄な心で僕が「大丈夫」になる法を作ってくれたのだから、僕は何も考えなくていい。問いは消えた。僕は愚者で何も分からないから代わりに五劫の間考えてくださった仏がいる。
問いは消えた。あとは生きるだけだ。
問い自体がおかしいのだと思う。ナンセンスな問いなのだと思う。答えのない問いなのだと思う。「今僕の部屋に羊は何匹いるでしょう?」みたいな意味のない問いだ。答えがない。けれども苦悩する人間は、こう問わざるを得ない。「なぜ苦しみながらも生きなければならないのか」
解法はある。問いを消せばいいのだ。バグワン・シュリ・ラジニーシという宗教家が、悟った瞬間に、何もかも分かったということはない、ただ「問いが消えた」と本に書いてあった。問いが落ちる。問いが落ちればいい。
無量寿経に、法蔵菩薩が五劫の間思惟したと書いてある。一劫というのは四十里四方の石に、百年に一度天女が下りてきて、衣でさっと撫でる。それでその石がなくなるまでの時間と言われる。それが五回だ。途方もない時間、「問い」を持っただろう。そしてその問いから生まれたのが「南無阿弥陀仏」なのだ。
人間は、愚かで何も分からないから、「南無阿弥陀仏」という六字に全ての「大丈夫」を詰め込んだ。僕は生きてる意味など問う必要もない。五劫の間に法蔵菩薩が清浄な心で僕が「大丈夫」になる法を作ってくれたのだから、僕は何も考えなくていい。問いは消えた。僕は愚者で何も分からないから代わりに五劫の間考えてくださった仏がいる。
問いは消えた。あとは生きるだけだ。
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