仏は存在しないのか
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし. 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
摂め取って捨てないことを、摂取不捨という。この摂取不捨に名前をつけたのが阿弥陀仏という仏だ。
鈴木大拙は、阿弥陀仏の本願を「原初の意志」だと解釈している。妥当な解釈だと思う。この世界には眼に見えない「救済意志」がある。これは世界に満ち満ちていて、どこにでもある。これを感得するのが「信仰」と言われるのだと思う。アッラーやイエスやクリシュナなど、名前は違えど「救済意志」に名前をつけたのが信仰というものなのだろう。この救済意志に乗託することを信仰という。
唯物論者ならば、それは信仰者の脳内の物質だと言うだろうが、それも一つの独断論に過ぎない。信仰している立場からいうと、この救済意志は、自分の「外」にある。
摂取不捨に名前をつけると阿弥陀になる。摂取不捨というのはどこどこまでも捨てない、死んでも捨てないということだ。死んでも捨てないという救済意志の上に乗る。そうすれば生と死の垣根がとれるだろう。
仏とは「働き」だ。いるとかいないとかではない。働いている。
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