過剰
カントの判断力批判を読んでいる。判断力批判の解説書に、美は過剰だ、無償の贈与だ、みたいなことが書かれてあった。確かにそうだ。神社の裏にある木々にある美は、過剰だ。別になくてもよかったものだ。道端に咲いてる花の美しさは、なくてもよかったものだ。過剰だ。過剰というものを散歩しながら考えた。
「過剰」というのは、「なくてもいいのにあるもの」のことだ。ということは極論をすると「なぜ無ではなく何かがあるのか」というライプニッツの問いに落ち着く。存在は過剰だ。僕は後期ハイデガーの思想は知らないが、存在は贈与とか言ってるのはその辺のことが関係しているのかもしれない。
けれど、どこにその「当たりまえ」と引くかは人によって違う。普段サラリーマン生活をしている人が、無を「当たりまえ」と思って、存在を過剰だとは思わないと思う。それこそ「美」などが「過剰」になるのだろう。灰色で何もない日々に、妻から結婚記念日に花束を貰えばそれは「過剰」だろう。じゃあ、愛も過剰なのか?愛がなくて当たり前の人には、愛も過剰なのだろう。
過剰とは、言い換えれば無償の贈与だ。
命はないのが当たり前、というところに腰を据えると、命は過剰な贈与になる。それが呪いになるのが反出生主義で、恩寵になるのが仏法だ。
世の中全部過剰だ。なくて当たり前。美はその一端だ。生きる意味とかも、なくて当たり前。あるのが過剰で恩寵なんだ。全部無償の贈与で過剰だ。
ある ある ある
さわやかな秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える良人がある
「ハーイ」という娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し かおを洗う
短いけれど指のない
まるいつよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな秋の朝
「過剰」というのは、「なくてもいいのにあるもの」のことだ。ということは極論をすると「なぜ無ではなく何かがあるのか」というライプニッツの問いに落ち着く。存在は過剰だ。僕は後期ハイデガーの思想は知らないが、存在は贈与とか言ってるのはその辺のことが関係しているのかもしれない。
けれど、どこにその「当たりまえ」と引くかは人によって違う。普段サラリーマン生活をしている人が、無を「当たりまえ」と思って、存在を過剰だとは思わないと思う。それこそ「美」などが「過剰」になるのだろう。灰色で何もない日々に、妻から結婚記念日に花束を貰えばそれは「過剰」だろう。じゃあ、愛も過剰なのか?愛がなくて当たり前の人には、愛も過剰なのだろう。
過剰とは、言い換えれば無償の贈与だ。
命はないのが当たり前、というところに腰を据えると、命は過剰な贈与になる。それが呪いになるのが反出生主義で、恩寵になるのが仏法だ。
世の中全部過剰だ。なくて当たり前。美はその一端だ。生きる意味とかも、なくて当たり前。あるのが過剰で恩寵なんだ。全部無償の贈与で過剰だ。
ある ある ある
さわやかな秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える良人がある
「ハーイ」という娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し かおを洗う
短いけれど指のない
まるいつよい手が 何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな秋の朝
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