恋愛 愛とは
友達が「いろいろなことをして愛の真理を知りたい」というようなツイートをしていた。本当にいろいろ模索していて、恋愛したりアイドルしたりしている。僕も人生で一番重要なのは、自己とは何か、愛とは何か、死とは何か、だと思っているほど愛とはなんぞやということを結構考えることがある。
仏教の法話で、仏の慈悲、つまり見返りを求めない片道の愛を、親子の愛情に例えることがあるが、恋愛に例えることはまずない。愛とはなんぞやという問題には、僕なりに結構答えは出ていて、それは僕が感じている阿弥陀仏の愛情であると思う。でも悲しいかな、僕は人を愛することができない。
ニーチェも書いていたが、恋愛を愛の典型だと考えるほど愚かなことはない。なぜ恋愛が愛だと言われるのか?スピノザの言うところを聞こう。
人間は、自己自身のパワーをあげることが好きだ。それを喜び、とスピノザはいう。その喜びの原因を、スピノザは愛だと定義する。これはスピノザは恋愛を範型にして作った理論だと思う。そのもともと喜びの原因だったものが、自分の悲しみの原因、つまり自分のパワーを下げる原因になると、その対象は「憎しみ」の対象になる。
愛とは、自己の喜びの原因でしかない。けれど、喜びの原因のパワーがあがれば自分の喜びも増すので、いろいろ尽くそうとする。だから崇高っぽいものだと言われるのだろう。けれど根底には「自分が喜びたい」という我執しかない。お互いが喜びの原因になるので「綺麗なもの」だと扱われているけれど、それは一面でしかなく、普通に憎しみの割合もデカい。
そもそも愛という言葉は仏教語で、悪い意味で使われる。恋愛は愛ではない。自分の喜びのために他人を利用することだ。カントのいうには、他人は手段にしてはならず、目的として扱わなければならない。けれども、己の性欲を満たしたいという欲望が混じっている恋愛で、相手を手段に貶めることがないわけがない。僕は、恋愛は本質的に汚いものだと思う。泥まみれの物だと思う。その泥の中に、真珠がある可能性を信じて、僕は恋愛をするんだろうけど。
仏教の法話で、仏の慈悲、つまり見返りを求めない片道の愛を、親子の愛情に例えることがあるが、恋愛に例えることはまずない。愛とはなんぞやという問題には、僕なりに結構答えは出ていて、それは僕が感じている阿弥陀仏の愛情であると思う。でも悲しいかな、僕は人を愛することができない。
ニーチェも書いていたが、恋愛を愛の典型だと考えるほど愚かなことはない。なぜ恋愛が愛だと言われるのか?スピノザの言うところを聞こう。
人間は、自己自身のパワーをあげることが好きだ。それを喜び、とスピノザはいう。その喜びの原因を、スピノザは愛だと定義する。これはスピノザは恋愛を範型にして作った理論だと思う。そのもともと喜びの原因だったものが、自分の悲しみの原因、つまり自分のパワーを下げる原因になると、その対象は「憎しみ」の対象になる。
愛とは、自己の喜びの原因でしかない。けれど、喜びの原因のパワーがあがれば自分の喜びも増すので、いろいろ尽くそうとする。だから崇高っぽいものだと言われるのだろう。けれど根底には「自分が喜びたい」という我執しかない。お互いが喜びの原因になるので「綺麗なもの」だと扱われているけれど、それは一面でしかなく、普通に憎しみの割合もデカい。
そもそも愛という言葉は仏教語で、悪い意味で使われる。恋愛は愛ではない。自分の喜びのために他人を利用することだ。カントのいうには、他人は手段にしてはならず、目的として扱わなければならない。けれども、己の性欲を満たしたいという欲望が混じっている恋愛で、相手を手段に貶めることがないわけがない。僕は、恋愛は本質的に汚いものだと思う。泥まみれの物だと思う。その泥の中に、真珠がある可能性を信じて、僕は恋愛をするんだろうけど。
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