なぜ信じる必要があるのか
キリスト教に万人救済主義というのがある。内村鑑三も晩年は万人救済主義だったらしく、日本人の感性に合っているのだと思う。その名の通りで、クリスチャンもノンクリスチャンもみんな救われるという主義だ。
これに似た思想に、一遍上人の「信不信を論ぜず」というのがある。一遍上人が南無阿弥陀仏の札を配っていると、「私はまだ信じれてないので受け取れません」という坊さんに出会った。それでも無理やり渡してしまった。その夜の夢に神様が出てきて「信じてなくてもいい、助かる」とか言ったとかなんとか。
真宗の十八願には「心を至して、信楽して、我が国に生まれると欲して十回でも念仏するものを助ける」と書いてある。だから文字通り読めば信じなければいけないのだけれど、一遍上人に言わせれば、信心も全て「南無阿弥陀仏」の声に入っているらしい。
僕は如来の智慧を持っていないので、親鸞聖人と一遍上人のどちらが正しいのか知らないが、僕は信じる必要があると思う。真宗では信心が「原因」となって、極楽往生という「結果」が生まれるので、信心は必ず必要、と説かれる。でもそういう教義的なこと抜きにしても、僕は信じる必要があると思う。
僕は「信」というのは認識装置だと思う。宇宙に遍満する救済の働きを感受する、心の一部だと思う。疑いが邪魔をして、信が隠れているときは、救済の働きを感受できない。それゆえ救われない。鈴木大拙みたいな言い方をすると、感性と悟性の奥に、「霊性」がある。疑いがなくなった人は、その霊性が開花する。霊性が開く前に死んでしまった人は、もう一回人生をしなければならない。
一言で言えば、救済の働きに「出遇う」ということがなければ、その人は救われない、と僕は思う。
自分が救われることを信じたから、救われるって思い込んでるだけでしょ、という浅い問題ではないと思う。月の裏にユニコーンがいると信じているから、その人の中ではユニコーンがいることになっている、というような問題ではないと思う。
大悲は「ある」。宇宙に遍満している。その大悲が胸をスッと通る。そうすればその人は救われる。その人は大悲の光明の中で暮らすようになる。
どうも信仰のことは理論化しづらい。清沢満之や暁烏ハヤのように、目の前の饅頭を食ってくださいとしか言えないのかもしれない。
これに似た思想に、一遍上人の「信不信を論ぜず」というのがある。一遍上人が南無阿弥陀仏の札を配っていると、「私はまだ信じれてないので受け取れません」という坊さんに出会った。それでも無理やり渡してしまった。その夜の夢に神様が出てきて「信じてなくてもいい、助かる」とか言ったとかなんとか。
真宗の十八願には「心を至して、信楽して、我が国に生まれると欲して十回でも念仏するものを助ける」と書いてある。だから文字通り読めば信じなければいけないのだけれど、一遍上人に言わせれば、信心も全て「南無阿弥陀仏」の声に入っているらしい。
僕は如来の智慧を持っていないので、親鸞聖人と一遍上人のどちらが正しいのか知らないが、僕は信じる必要があると思う。真宗では信心が「原因」となって、極楽往生という「結果」が生まれるので、信心は必ず必要、と説かれる。でもそういう教義的なこと抜きにしても、僕は信じる必要があると思う。
僕は「信」というのは認識装置だと思う。宇宙に遍満する救済の働きを感受する、心の一部だと思う。疑いが邪魔をして、信が隠れているときは、救済の働きを感受できない。それゆえ救われない。鈴木大拙みたいな言い方をすると、感性と悟性の奥に、「霊性」がある。疑いがなくなった人は、その霊性が開花する。霊性が開く前に死んでしまった人は、もう一回人生をしなければならない。
一言で言えば、救済の働きに「出遇う」ということがなければ、その人は救われない、と僕は思う。
自分が救われることを信じたから、救われるって思い込んでるだけでしょ、という浅い問題ではないと思う。月の裏にユニコーンがいると信じているから、その人の中ではユニコーンがいることになっている、というような問題ではないと思う。
大悲は「ある」。宇宙に遍満している。その大悲が胸をスッと通る。そうすればその人は救われる。その人は大悲の光明の中で暮らすようになる。
どうも信仰のことは理論化しづらい。清沢満之や暁烏ハヤのように、目の前の饅頭を食ってくださいとしか言えないのかもしれない。
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