仏法は妄想か?
「仏教は虚無に耐えられない人が作った妄想」と言われた。いろいろな経典を読めば「ただびと」が書いてるとは思えないはずだと思う。僕はあまり経典などを読んでいないが、僕が読んだ中でも維摩経、法華経などはまず普通の人間が説けるものだと思えない。もちろん無量寿経もそうで、「誰か」が書いたのは勿論だが、それは真理を感得した人が書いたのだと思う。禅やテーラワーダ仏教は明らかに妄想ではないのでここでは置く。
現代人に、凄く寄り添って書くと、託事顕法(たくじけんぽう)ということが肝になると思う。事によせて、法(真理)を現す。法蔵菩薩が衆生のために修行をしたなどというのは、言葉にできない領域をなんとか言葉にしようとした「物語」であって、その物語を自分の中にインストールすると、脳みその宗教の部分が変化する。そうすると安心して生きられる。「物語」をインストールしても、死後のことは分からないが、「仏に任せる」という「姿勢」になることができる。ここまでしか言えない。
まとめると、とある「物語」をインストールすると、安心の日暮らしができて、死後を仏に任せるという「姿勢」になることができる。ここまでは言える。ここからは言えない。浄土があるのかないのか僕は知らない。
親鸞聖人は浄土のことを法性のみやことかいろもかたちもないところとか言っているので、常識的な死とそんなに変わらないのかもしれない。僕は知らない。
「ともかくもあなたまかせの年の暮—————小林一茶」
現代人に、凄く寄り添って書くと、託事顕法(たくじけんぽう)ということが肝になると思う。事によせて、法(真理)を現す。法蔵菩薩が衆生のために修行をしたなどというのは、言葉にできない領域をなんとか言葉にしようとした「物語」であって、その物語を自分の中にインストールすると、脳みその宗教の部分が変化する。そうすると安心して生きられる。「物語」をインストールしても、死後のことは分からないが、「仏に任せる」という「姿勢」になることができる。ここまでしか言えない。
まとめると、とある「物語」をインストールすると、安心の日暮らしができて、死後を仏に任せるという「姿勢」になることができる。ここまでは言える。ここからは言えない。浄土があるのかないのか僕は知らない。
親鸞聖人は浄土のことを法性のみやことかいろもかたちもないところとか言っているので、常識的な死とそんなに変わらないのかもしれない。僕は知らない。
「ともかくもあなたまかせの年の暮—————小林一茶」
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